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【短編】見覚えのない短冊

 目を醒ますと、部屋の隅に巨大な笹が置いてあった。

 咄嗟にカレンダーを確認した。8月16日。七夕ではない。そもそも独り暮らしのアパートに突然現れて良い代物ではない。見覚えのない笹を見つめて、私はベッドの上で固まっていた。

 どんなに目を凝らしても、それは消えなかった。厳然とそこに実在している。私は、自分では処理しきれない事態と判断し、珈琲を呑むためにベッドから立ち上がった。

「おはよう」

  誰かの声がした気がして、私は振り向いた。誰もいない。よくあることだったので、無視して珈琲豆を挽く。今はもう、この部屋には私しかいない。誰かの声が聞こえるはずなどあるはずがない。

 珈琲を飲んで、改めて笹の葉を見ると、オレンジ色の四角い紙が吊るしてあった。何か書いてある。よく読めない。文字が書いてあることは分かるのに、まるで外国語を読んでいるように、どんな意味の文字なのかが理解できない。
 でもその、紙がぶら下がっている様子は、笹に妙によく似合っていた。見覚えがある光景。そうだ、七夕には、こうやって笹に短冊を吊るすのだった。自分でも、こんな当たり前のことを忘れていたのが不思議だった。ならば自分でも書いてみようと、私はノートの切れ端を見つけて、文字を書いた。それを吊るすと、白い紙は、場違いな場所に来てしまったように頼りなくユラユラと揺れた。

 次の日の朝起きると、短冊がひとつ増えていた。私はその黄色い短冊を手にとって見る。これも読めない。またどこからか「おはよう」と声がした。振り返っても誰もいない。もう一度笹に向き合う。ひとつしかなかった時よりも、みっつに増えた今のほうが馴染んで見えた。私は部屋からありったけの紙片を集め、それに願い事を書いた。そして、片っ端から吊していった。笹は、本来の色がなくなるくらい、大量の短冊を纏って傾いでいた。

 次の日起きると、笹はその重みで床に仆れていた。私は抱き起こそうとして、思い直して、それを足で踏んでみた。それは足の裏でカサリと音を立てた。葉は乾燥していて簡単に砕け散りそうなのに、幹は意外にしっかりしていて、そう簡単には分解しなかった。その丈夫さが何だか腹立たしくなり、私はもう笹を一度踏んだ。今度は両足で踏みつける。気がついたら、私は笹を無茶苦茶にしようと暴れていた。手で千切ろうとしても、表面の葉が取れるくらいで、笹自体はびくともしない。

 どのくらい格闘していたのだろう。気がつくと、部屋にはバラバラになった笹の葉と、ちぎれた短冊が、床を覆い尽くすように散乱していた。

 私は馬鹿馬鹿しくなって、でも少しだけ爽快な気持ちで、散らばった短冊の残骸を見渡した。片付ける気力もなかった。喉が渇いたので珈琲でも呑もうかと立ち上がりかけて、自分の手が短冊の断片を握りしめていることに気がついた。手を広げると、オレンジ色の残骸が皺だらけになって出てきた。その古びて日に焼けた紙の上に、折れ曲がった字でこう書いてあった。

『仲直りできますように』

「…無理だよ」

 私は短冊を千切って床に捨てた。
 それから、全部燃やすために、ライターの在り処を探し始めた。足許に真っ白な紙片が纏わりつく。
 そこに書いてある文字は何故か霞んで読めなかったけど、燃えてしまえば何の問題もない。私はようやく見つけたライターを震える手で握りしめると、その火を、乾いた願い事の残骸にゆっくりと近づけた。

2022-08-18
   



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