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【短編】不眠症

 カバンの中に半錠の白い錠剤。
 喫茶店に入ってから見つけたそれを、私はなんとなく弄んでいた。ステンドグラスの影。グラスの中の正方形の氷。乱雑にモノが詰め込まれたカバン。そしてピルケースに潜んでいた半錠の睡眠薬。

 それは、毎日私が自分で半分に切って呑んでいる薬だった。不眠症というものは、毎日意地の悪い不安と覚悟を強いてくる。今日は寝られるだろうかという不安。大丈夫だろうと薬を飲まずに寝室に入り、気がついたら日付変更線を超えていたときの焦り。そしてまた、昨夜と同じことが起こるかもしれないという恐怖。
 その繰り返しが日常だ。

「あと少しで職場を説得できるんだ」
 睛の前の男か言う。
「もう少し待ってくれないか」
 私の耳は彼の言葉を聞き、目はコップに浮かぶ氷を眺めている。
 何度めかの話し合い。彼はもう少しで離れ離れの生活が終わるという。しかし先日、彼の職場の知り合いと話をする機会があって、今彼が話した事がすべて嘘であることは事前にわかっていた。嘘でコーティングされた言葉。破れたフィルムに収まった半錠の睡眠薬。
「いいよ」
 私が云うと、彼は安心した顔をした。その、露骨ではないごく自然な表情から、彼にとって、嘘を吐くことが日常であることを知る。
 誠実さだけを自分の信条にしている私の睛には、それは不自然に映る。

「ちょっと」
 ごく自然に、彼は席を立った。お手洗いに行くふうに見えるけど、もしかしたら、私の知らない本妻に電話をかけに行くのかもしれない。

 何だか体の芯から疲れてしまった。受け取ってしまった嘘は、内側をじわじわと蝕んでいく。切りつけられた痛みは無いけれど、生きるエネルギーが根本から奪われていく。

 彼はなかなか戻ってこなかった。彼のコーヒーはとっくに冷めてしまっていた。
 私はまだ、半錠の薬を持て余している。

 私は、コーヒーソーサーに乗ったスプーンで、そっと薬を押しつぶしてみた。鋭利にすら思えた半月型の薬は、もともとそうであったかのように、あっという間に粉々になる。随分とあっけない。

 私はそれを、丁寧にスプーンで掬い上げた。
 そして、白くて汚れていないそれを、彼の黒く冷めたコーヒーに、ゆっくりと沈めた。白くキレイなものは、あっけないくらい瞬時に黒を受け入れる。スプーンで沈める間もなく、それは、みるみる底の見えない淵に沈んでいった。


2022-07-31

 


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