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「見えない/見える ことについての考察」ダンサー森山未來の表現

国境やジャンルを超えた表現者:ダンサー 森山未來の果てない魅力にも書いたのですが、私はダンサー森山未來くんがとても好きです。

今年はコロナ禍にあって、各種イベントや公演などを開催することが難しい中、今年も森山未來くんの舞台を見ることができると知り、観に行ってきました!


見えない/見える ことについての考察」というタイトル。

「私たちは見えなくなったんじゃない。もともと見えてなかったのよ」
ゆらぐ残像(ポストイメージ)、響き合う声、
森山未來が誘う「ほんとうに見ること」とは


私たちが本当に見ているものは何なのか。この問いの答えを見つけるとき、選び取ることの大切さに気づくことができるでしょう。パフォーマンス《見えない / 見える ことについての考察》は声と残像、そして森山未來の身体を通して私たちに語りかけてきます。

《見えない / 見える ことについての考察》はノーベル文学賞作家ジョセフ・サラマーゴの『白の闇』という小説から着想を得たテキストのリーディングを中心としたパフォーマンスです。ある日人々が突然視力を失う、それはいわゆる「黒い闇」ではなく、ミルクのように圧倒的な白い闇なのです。人々はパニックに陥り、弱者と強者の立場が入れ替わるなどの混乱がおきます。最後は視力を取り戻しますが、この体験を通して彼等は、見ることと見えないことの境界をリセットし、不確かな現代の中で本当に見なければならないものについて再考するのです。
この『白の闇』に、モーリス・ブランショ作の『白日の狂気』がメタテキストとして絡まってきます。これは強い光で視覚を失いそうになること、すべてが見えすぎることによってかえって見えなくなることを比喩的に語っています。明滅する光の残像の中に浮かび上がる森山未來の身体と、透徹した声で読まれる2つのテキストの響き合いは、未知のヴィジョンへと観客を誘っていきます。
(キュレーション:長谷川祐子 初演時概要より引用)

そして2020年、当たり前の日常を失い、新しい生活を築くこととなった我々に「本当に見ること」について問いかけます。

公式ウェブサイトより


横浜赤レンガ倉庫が会場だったのですが、暗い室内には、ひとつの椅子、サイドテーブル、2つのストロボライト、デジカメが置かれていて、それらを置いている空間と、それ以外との境界線を示すための白い布が敷かれていました。


どこからともなく聞こえてくる声、未來くんがその場で発する声、配られたイヤホンから聞こえてくる声、それぞれが役割を持って、時には重なりながら私の耳に届きます。

それから、真っ暗な状態、ストロボが焚かれる時のフラッシュ、薄暗い室内、明るい閃光、RGBの点滅... などなど、「見える」状態にも様々な変化が次々と展開されます。

朗読する、歩く、ストロボの位置を変える、などの動作に加えて、有機的で不思議な踊りをする未來くん。


そんな景色が繰り広げられる中、やはり頭の中にあるのは「見えない/見える」こと。

ヴィジュアルデザイナーという職業、また自分の興味の対象もそうなので、視覚には意識的に生きてきた私にとって、このテーマはとても興味深いのです。


色々な方向から、色々な視点の言葉での、ヴィジュアルに頼らない「聴く」という体験。

また、「見える/見えない」の様々なグラデーションを持った演出。

そして、美しい動きでの身体表現。

視覚から入ってくる情報と、視覚には入っていないけれど、そこにある情報。私には見えているけれど、他の人には見えていないもの。他の人には見えているけれど、私には見えていないもの。

... こんな風に色々な状況を頭に浮かべながら舞台を観ていました。


もちろん頭の中はカオスなのですが(笑)、印象的だったのは以下の言葉です。(うろ覚えなので正確ではないですが)

みんなが白の闇に包まれていく中、自分だけが「見えてる」とは言えない。自分も「見えていない」ことを装いながら、本当は「見えている」

この状況を想像した時に、なぜか恐ろしさを感じました。自分だけが「見える」ことの恐怖と孤独、そして罪悪感。


この舞台のような極限状態だから分かりやすいけれど、もしかしたら日常的に体験していることも、同じなんじゃないかな?という思いにも至りました。

なぜなら、人はこの世界を自分の好きなように「見て」体験しているから。


同じものを目の前にしても、心の中に浮かんでいるものはその人にしか分からないし、本当の意味では「共有」もできないのかもしれない。だから、できる限り同じ思いを体験するために想像力が大切なんじゃないかな、なんて思います。

そして、その人にしか「見えて」いない景色を、みんなに教えてあげるという意味で、表現する大切さも感じます。


見える/見えない ことについての考察」から少しずれてしまったかもしれませんが、正直に私が今思ったことを書いてみました。

難しいテーマかと思いますが、みなさんはどう思いますか?


そして、表現者としての未來くんの挑戦と進化を観ることができて、とても嬉しかったです。これからも応援していきたと思います!


最後に、今回の舞台を観ながら思い浮かんだ、1つの映画と1冊の本も合わせてご紹介しますね。


映画「ブラインドネス
舞台を観た後で調べた時に、やっぱり!と思ったのですが、同じ作者ジョセフ・サラマーゴの『白の闇』を原作とした映画でした。

ストーリー
ある日、運転中の日本人男性の目が突然見えなくなる。普通は失明すると暗くなるはずが、視界が白い光で溢れたようになるという症状で、男性は通りがかりの人に助けられてなんとか帰宅し、翌日眼科に向かう。

診察に訪れた病院の眼科医には原因が全く分からない。しかも、翌日の朝になってみると、眼科医の目も見えなくなっていた。眼科医だけでなく病院の待合室に同席した人々など、日本人男性と触れ合った人々が次々に失明していき、同じ症状を持つものが爆発的に広がっていく。

ただ一人、眼科医の妻だけは症状を持つ人々を触れ合っても失明が始まらなかった。 政府は深刻な感染症だと判断し、感染したとおぼしき人々を隔離することに決定。眼科医の妻も失明したように装い、夫と共に収容所に入る。

失明した人々ばかりが集まる収容所では、衛生状態の悪化・収容人数の増加による食糧の不足・管理側の軍の非協力など様々な問題が起こる。そんな中、第三病棟の王を名乗る男が現れ、第三病棟は独裁を始め、食糧と引き換えに金目の物や女性を要求。凄惨な物語が進行していく。やがて、第三病棟の独裁に耐えきれなくなった患者たちは遂に反乱を起こす。反乱は病棟内が火災で燃えつきるほど激化し、人々は収容所の外へ出ざるを得ない状況に陥った。いつもならば、病棟の周辺を警備している兵隊の発砲があるハズなのに今回は無い。収容所の外で何かが起こった―――違和感を覚えながらも人々は歩きだす。だが、眼科医の妻の目だけは収容所の外の世界の変貌を"見て"いたのだった…
ウィキペディアより)


そして、「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本。

この本は、私の視野を大幅に広げてくれた大切な一冊です。詳細はまたの機会に紹介したいと思います!



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