2021.5.7 Track01 心臓音 1KB
最初に断っておくが、これは勇気ある告白ではない。かといって苦しみの懺悔でもないし、希望に満ちた決意でもないだろう。ではこれは何かと聞かれたら、ただの記録だ、と私は答える。選んだこと、選べなかったこと、そしてそれを超えたところにあるものの記録を、ここに置いておく。
2019年4月末、会社帰りに自転車で転倒し、心肺停止状態で路上で倒れていた山田が病院に搬送された時、私は娘を妊娠中で臨月だった。3歳の息子と共に病院に駆けつけが、山田の脳は低酸素脳症で大きなダメージを受けており、治療が最もうまくいった状態で植物状態になるだろうと告げられた。突然直面した夫の死。この状況で私が望めたことは、6月半ばの娘の出産予定日まで延命措置をし、山田の心臓が停まる前に、山田と生まれた娘を面会させる、それだけだった。
その後、数日のうちに山田の病状は悪化していった。そして脳がほとんどの機能を失い、脳死とされうる状態となった時、医師が今後の選択肢としてひとつの可能性を告げた。
「臓器提供などの可能性も出てきますので、もしよろしければ旦那さんの免許証や保険証を確認してみてください」
臓器提供意思表示。そういえば免許証や保険証の裏にそんな欄があったな。知ってはいたが、自分のものは空欄のままだったはずだ。山田のものはどうだろう?そんな話もしたことがなかったし、多分空欄のままなんじゃないかなぁ。そう思いながら、自宅に帰って山田の財布を取り出す。雨の中倒れていた山田のポケットに入っていた皮の財布は、水に濡れていたのが乾いて少しうねっていた。
免許証を取り出して裏面をみると、空欄だろうと思っていた意思表示欄に書き込みがある。
まさか。
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれででも、移植のために臓器を提供します。
【心臓・肺・肝臓・腎(じん)臓・膵(すい)臓・小腸・眼球】
「1」と、記載された7つの臓器にひとつずつ〇が付けられていて、更に特記欄には自筆でこう書かれていた。
「すべて」
すべて?
混乱で速くなる動悸を抑えようと、息を吐きながら保険証を取り出すと、保険証の裏面にも同じことが書いてある。山田はすべての臓器の提供を希望すると、意思表示をしていたのだ。
免許証と保健証を握りしめ顔を上げると、山田がいろいろなものを雑多に入れていた、無印のポリプロピレンケースが目に入る。いやちょっとね、そこの引き出しの中、見てみなさいよ。イベントのステッカーに水曜どうでしょうのポストカード、C3POのレゴのミニフィグキーホルダー、フェスのリストバンド、山盛りの缶バッジ、たまこラブストーリーを観た半券、いつのものだか分からない葉巻、学生時代の写真が入ったミニアルバム。捨てられないいろんなものが放り込まれてぐちゃぐちゃじゃないの。整理整頓なんて全然得意じゃないくせに。なのに、この意思表示カードにつけられた、いくつもの律儀な〇は何なのだ。
臓器提供なんて話、聞いたことなかったけど。いや、もしかしたら私が忘れているだけかもしれない。こだわる部分もある人だったから、臓器提供について思うところもあったのだろうか。家族が好きだったし、何かあった時に迷惑がかからないようにとつけられた、いくつかのマルだったのかもしれない。
でも、それは、今だった?
心臓ひとつ残さないで、私たちを置いて、今、逝くことだった?
医師との次の面談の日、免許証と保険証に記載があったことを告げると、医師は意外そうな顔をした。そのように明確に意思表示があるのは珍しいことらしい。
「旦那さんの意思表示があっても、臓器提供を行うにはご家族の承諾が必要です。ご家族が承諾しない場合は、提供は出来ません。旦那さんの意思表示はある。ただ、旦那さんは脳死とされうる状態となっており、今現在の意志を伝えることはできません。旦那さんの言葉を代弁できるのは、ご家族だけです。臓器提供をする、しないに正解も不正解はありません。旦那さんがどんな人で何を望む人だったか、よく考えて、話し合って決めて下さい」
この時点で、ほぼ脳死とされうる状態だった山田は、いつ心停止してもおかしくなく、体の機能も徐々に失われていた。各臓器が移植に耐えうる状態を保って臓器提供を行うためには、早い段階で臓器提供を決断し、手続きに移らなければならなかった。この時は5月のGW中。臓器提供する場合、移植に向けてどれほど最大限に時間を取ったとしても、6月半ばの出産予定日まで引き延ばすことは難しい。
臓器提供が行われる基準は、国によって様々らしい。脳死と判定された時点で本人の意志に関わらず臓器移植の対象となる国、本人の意志表示のみで臓器提供がされる国。日本では本人の意思表示があったとしても、家族の承諾がなければ臓器提供が行われることはない。また、本人が拒否の意思表示をしていない限り、家族の同意により臓器提供を行うことが出来る。
そして、臓器提供には大きく分けて、脳死後と心停止後に行われるものの2種類がある。脳死後であればまだ循環機能がある状態で臓器が摘出されるため、心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球の7つの臓器提供を行うことが出来る。免許証や保険証の裏に並べて書かれている、あの各臓器のすべてである。一方で心停止後、つまり本人の心臓が止まるのを待ってから臓器を摘出する場合は、肝臓・膵臓・眼球の3つの臓器の提供が可能だということだった。
私はずっと、臓器提供というものは良いことだと思ってた。死んで機能を失っていくしかない肉体が、他の誰かの命を助けることになるのならば素晴らしいことだとそう思っていた。だけど、今この瞬間、私が何を選べるというのだろう。腎臓や肝臓、これは分かる。生きているうちにだって移植されることのある臓器だから。眼球や肺や小腸も、失われてしまうのであれば誰かにと考えられなくもない。
でも、心臓は?
心臓。生きている限り動いているもの。心臓が止まれば死ぬ。では心臓を提供するということは、まだ動いている心臓を取り出すということだろうか?だとすれば、一体山田の「死」は、いつやってくるのか?
「心臓を提供する場合、最期はどうなるんでしょうか?」気になっていたことを医師に尋ねる。
「臓器提供が承諾されると、まず専門の医師によって、2回の厳格な脳死判定が行われます。正確には「脳死」というのはこの2回を経て確定することですので、現時点では旦那さんの状況を「脳死とされうる」と言っています。その2度目に脳死判定された時間が、ご主人の死亡時刻になります。その後ご家族との時間を取り、みなさんと過ごしていただきます。その後手術室に移って、臓器を摘出し、移植を行うことになります」
漠然と思っていた予感はその通りだった。このことについては、色々な表現があるのだと思うが、その時私が捉えたことを率直にいうならば、臓器提供を承諾するということは、山田の「死」のタイミングを家族が決めるということでもあった。
しかし「死」とは一体何だろう。移植された山田の臓器が誰かの体の中で動き続けているのだとすれば、それは「生きている」ということになるのだろうか。
ドラマや再現VTRなどで見たことのある光景を思い出す。伴侶や子供の心臓が提供された相手と対面し、涙を流しながら抱き合う光景だ。それは感動的な場面として表現されることが多いが、当事者にあるのは喜びなのか、悲しさなのか、その両方なのか。山田と違う生活をし、違う体と心を持ち、違う人生を歩む誰か。その真ん中で動き続ける山田の心臓。それは形を変えて山田が生きて続けているということになるのだろうか?
臓器提供について、承諾するしないに関わらず説明を聞くことになり、医師の立ち合いの元、臓器移植のコーディネーターとの面談があった。コーディネーターは若い女性だった。彼女も医師たちも注意深く、臓器提供を承諾してもしなくても、その決定は尊重されるものだと伝えてくれる。一通り説明を受けたあと、奥さんは今、どう思われますか?と質問される。
何度も頭の中でぐるぐると無数のことを考えていたはずが、うまく言い表す言葉が見つからないまま、思いついたことを順番に口にしていく。
「家族が、息子のことが大好きな人でした。娘が産まれるのも楽しみにしていて…。何か自分にあった時迷惑にならないようにと意思表示してたんじゃないかと思います」
コーディネーターは静かに頷きながら私の言葉を聴いている。
「提供するならいい人にもらって欲しいと思っていて…」
そう言ったまま言葉に詰まった私に、コーディネーターが語りかける。
「臓器提供を希望する方々の多くは登録してから長い時間を待っておられます。提供を決意されたご家族のことを思って涙をされる方もいらっしゃいますし、皆さん大変感謝していらっしゃいます。また、移植手術を受けたとしても実際に臓器が体に適応するには時間がかかりますし、入院や経過観察、薬を飲むことも長期間必要になります。いただいた臓器は大切にしてみなさん過ごしておられますよ」
それは想像できることだった。受けられるかも確実ではない臓器移植を待つ時間。死ぬことと生きることの間で過ごすその時間の厳しさ、その時間を過ごす沢山の人のことを思うと胸が苦しい。それは自分が今置かれている状況とも共通する部分がきっとあるだろう。また、自分自身や家族が臓器提供を受ける立場だったとすれば、移植を受けられるということがどれほどの救いになるだろう。
だけど、分からない。そして、恐ろしい。
「夫の臓器提供に、特に心臓を提供することに同意したことを、将来自分がどう思うか分からないんですが…、いくつも臓器提供の例を見てこられて、なにか思うところはありますか?」
そう聞いたが、質問が曖昧すぎてうまく意図が伝わらず、私は言葉を重ねた。
「えーっと……例えばすごく高齢な方に移植された場合とか…?なんか自分の夫は若くして死んだのに…とか、思ったりするんですかね…?」
「もちろん、いろいろと複雑な所はあるかと思いますが…。移植を受ける方の年代は決められませんので、ご主人より年上の方に移植されることに抵抗があるのであれば、提供は少し考えられた方が良いかもしれません」
年齢の話をしたいわけではなかったのだが、うまく伝える言葉が見つからない。たとえ10代の若者に移植されたとしても、私はそれをどう受け入れられるか分からなかったのだ。つまり、私が聞きたかったのはこういうことだ。
「私は、山田の臓器提供を受けて生きている誰かのことを、羨まず、妬まず、幸せに生きていけるでしょうか?」
そんなことは、誰にも分かるはずがない。
あぁ、私がもっと強く素直な人間なら良かった。臓器を提供することは、誰かと共に山田が生き続けることだと一直線に信じられたら良かった。本人の意志を何よりも尊重して臓器提供に同意し、提供を受けた誰かの健康と幸せを、広い心で願える人間なら良かった。
私は、恐ろしくて仕方がない。臓器提供を承諾し山田を見送り、そして出産する。そんなことに自分自身が耐えられるのだろうか。陣痛の痛みに耐えながら分娩台の上で天井を見つめる時、誰かの体の中で山田の臓器が動き続けているという現実は私を支えるか?いやむしろ、臓器が摘出された山田の体内の空洞を呪い、暗く深い穴に飲み込まれてしまうのではないか?
山田、どうする?
こんなところで死にたくはなかったと思うけど、今、この瞬間、自分の意思を表せたら何を選ぶ?
お腹の子が女の子だと分かった時の山田の狼狽した表情を思い出す。
「ど…どうしよう…女の子、何も分からない…!」
「そのうち、パパ嫌い、って言われるかもんね…」
山田はおなじみのハの字眉の表情で答える。
「…そうしたら俺が家出するしかない…!」
それから4月の頭に近所の川辺に息子とお花見に行って帰ってきたことを思い出す。2人で船に乗って、コーラを飲んで、大道芸をみて帰って来たらしい。あちこち走り回っていたらしい息子のズボンの膝がなぜかビリビリに破れていて、「あの人、自由すぎる!」と笑っていたっけ。
そんな風景はもうない。娘の誕生も、息子の成長も近くで見守ることもはない。あなたは死ぬ。それは変えられない。でも、せめて、娘の顔は見たいんじゃないの?
頭が割れるほど考えた先に、ひとつの考えが浮かぶ。
私は、生きていかねばならないだろう。生き続けていかねばならないだろう。そのために必要なのは、誰かのための、いつかのための話ではなく、今この瞬間、私たちのための1番力強いストーリーだ。これが正しいかどうかは分からない。色々な理由をつけることは出来るが、結局は自分のために、山田の残した意思を曲げ、助かるかもしれない命を見捨てることになるのかもしれない。でも私は選ぶ。だから山田、お前もやれよ。一緒に近い未来に届くために。
死ぬなら、私たちのために生きて、死んでくれ。
私は臓器提供を承諾せず、出来るだけ延命治療をし、生まれてくる娘と山田の対面を目指すことに決めたのだった。
翌日、医師にそのことを告げると医師は言った。
「分かりました。臓器提供の話はなしにしましょう。脳死という言葉も、私たちは今後一切使いません。旦那さんはまだ生きています」
そう医者が告げたとき、ばらばらと涙がこぼれたが、それは安堵だったのか、申し訳なさだったのか、今でもよく分からない。
こうして、山田の延命治療は引き続き行われ、結果としてその後1ヶ月半、山田の心臓は動き続けた。本人の生命力もあったのだろうが、私の希望を叶えようと、最大限に、そして注意深く、様々な処置を施してくれた医師や看護師の方々のおかげだろう。そしてこの1ヶ月半という時間が、もたらしたものを説明することはとても難しい。
例えば、産婦人科に夫婦で検診に来ている人たちを見た時、なるべく早く娘が生まれてくるようにとマンションの階段を登っている時、陣痛が来て娘を出産した時、薄暗い夜中の分娩室から助産師さんに支えながら病室に向かっている時、生まれたばかりの赤ちゃんが並ぶ面会室のガラス窓を覗く、小さな男の子とその父親を見た時、私はこう思うことが出来た。
「まだ生きているから大丈夫」
それは、大嵐の中の鳥のさえずりくらいささやかで頼りないものだったが、少なくとも衝動的に生きるのを諦めたりせずには済んだ。1秒先、5秒先へ行くためのおまじないのようなものだった。
また、心停止しても蘇生は行わない、ということに同意し、集中治療室から一般病棟に移された山田には、沢山の友人が面会に来てくれた。病室にはいつも、誰かが持ってきてくれた花が飾ってあり、時には友人たちの他愛のない、いつも通りのやり取りが飛び交った。山田自身、寝たきりで何も答えられないような状況で、友人たちに会いたかっただろうか、ということには迷いはある。けれど、一人でも多くの人と状況を分かち合えたことは、いまだに私や家族を支えている。
それから、この期間にいつも思い出していた光景がある。それは昼下がりの病室でのことだった。病室には窓側に、深く沈みこむ皮張りの1人がけのソファが置いてあり、私はよくそこに座っていた。その日は気持ちの良い晴れの日で病室には日差しが差し込み、少しだけ開いた窓から5月の風が吹き込んだ。
気持ちが良くて思わず目を瞑る。ピッピッという心電図の機械音が鳴っている。山田の寝ているベッドからも規則正しい呼吸音が聞こえ、眠気を誘う。それは山田に取り付けられている人工呼吸器の音だったのだが、うたた寝をしている頭の中で、なんだか酔っ払って家で寝ている時の寝息みたいだな、と思う。薄いカーテン越しに差し込む日差しの中、山田と私と、今お腹の中にいる娘と、それから息子と、うとうとと昼寝する昼下がりを思い、ふと満ち足りた気分になる。
これまでのことを思い出して苦しい時、これからのことを考えておそろしい時、切り取られた窓枠にはめ込むように、この日のうたた寝の風景を当てはめた。寝息に聞こえる呼吸器の音に合わせて息を吸って、吐いた。絶望的な中にあるわずかばかりの幸福感に、救われる夜がいくつもあった。
そして、娘は予定より2週間も早く生まれ、山田と面会を果たすことが出来た。眠る自分の胸元に寝かされた娘の重みを、病室に響き渡った娘の泣き声を、山田は感じ、聞いただろうか。撮影された家族4人の写真と共に、面会したあの時間に、どういう意味を与えるか、私はこれからも考え続けるのだろう。
私の選択は正しかっただろうか。未来にとって意味あるものだっただろうか。生き続けた時間は山田にとって何だったか。苦痛ではなかったか、幸福はあったか。その問いに答えはないが、私たちが、生き、語り続けることによって、選び取ったストーリーの美しさは、証明されるのだと信じたい。
娘との面会が果たされた後も、山田の心臓は動き続けていた。だがそれは、人工呼吸器やさまざまに投与されている薬剤や、医師や看護師の方々の24時間体制の処置によって、かろうじてコントロールされているものであった。
どこかで、終わりにせねばならない。
死を受け入れるには十分な時間を得たのだから。
ほどなくして、医師から山田の今後の治療方針について説明がなされ、その中で、現在の治療を終了する、つまり人工呼吸器を停止するという提案がなされた。娘に面会させるという目的が果たされたこと、現在の容態では他の病院への転院も難しいということ、そしてはっきりと意思表示をしていた山田に尊厳ある死を迎えてもらうべきではないかということ。私に異論はなかった。呼吸器を止めると、数時間程度かけてゆっくりと心臓が停止し、家族で看取ることが可能になる。数日後の午後、呼吸器を停止することが決まった。
呼吸器を停止することが決定した日、病室の山田の枕元の椅子に座って手を握った。入院してまもない頃、意識はなくても耳だけは最後まで聞こえているそうなので、話しかけてあげて下さい、と看護師さんに言われたことを思い出す。こんな状況にも関わらず、私はそれがあまり得意ではなく、いつも山田が好きだった曲を病室で流して、ただ手を握り、時々話しかけたり、iphoneで撮影した子供たちの動画を見せたりした。もっと泣いたり喚いたり、大声で話しかけたりしたら、山田は目覚めたのだろうか。
人工呼吸器を止める日が決まったというのに、相変わらず私は山田になんて話かけて良いのか分からない。小さく息を吐きながら、短く話しかける。
「頑張ったね」
それから、
「ごめん」
それから、と、次に言う言葉を思い浮かべた時、ばらばらと目から涙が流れ落ちる。こんなことを言う権利が一体私のどこにあると言うのだろう。でももしこれが聞こえているならば、私は言うべきなのだ。あなたがいない明日を、新しく始めるために。
「ありがとう、逝っていいよ」
人工呼吸器を止める必要はなかった。2日後、山田の心臓はひとりでに止まった。
家の本棚に、録音した山田の心臓音があると思い出したのはどのタイミングだったか。それは、息子を妊娠中に、夫婦2人での旅行にと訪れた、瀬戸内の豊島で録音したものだ。
クリスチャン・ボルタンスキー「心臓の音アーカイブ」。
豊島の静かな浜辺に立つ平屋には、ボルタンスキーが世界中の人々から集めた心臓音が保存されている。建物の中にはいくつかの録音用のブースがあり、そのブースの椅子に腰掛け、心臓に聴診器をあてて私たちは自分の心臓音を録音することが出来る。そしてその心臓音は、同じ建物内の防音の暗室で聴くことが出来るのだ。暗室の中では心臓音に合わせて電球が点滅し、その電球に照らされて壁面が鈍く浮かび上がる。
私たちはこの場所を訪れた記念にと、自分たちの心臓音を録音した。録音された心臓音は、このアーカイブに保存されると共に、録音されたCDを持ち帰ることが出来た。
山田の死後、1度このCDを聴こうとしたことがある。PCにCDを読み込み、フォルダを開く。表示されたファイル名を見て、ふと手を止めた。
Track01 1KB
心臓は燃え尽きて0になり、1KBの心臓音が残された。あまりにも軽いデータ。けれどこの0と1の間にあるものの途方もなさを、私はどう考えよう。これを再生すれば山田の心臓音が鳴り始めるなんて信じられない。いや、自分に起こったことの全てが、遠い幻みたいににも思える。
かつて、山田の生命活動の中心にあった心臓。移植されて誰かの体の中で動いていたかもしれない幻の心臓。そして1KBに圧縮された心臓音。かつてあった、あったかもしれない、なくなったけどある。これらが平行して存在するこの世界は一体何なのだ?私がいるこの場所は、どこなのだ?
結局CDは再生せずに、ケースに入れて本棚に戻した。これを聴くのにふさわしい場所があるのだとすれば、豊島の、ボルタンスキーの暗室の中だろう。
あの海辺の平屋を思い出す時、それはまるで幻の行き着く終着駅のように思える。不思議なものだ。成長した子供たちと山田との4人の家族写真という現実的なものは、あっという間に幻になり、あの穏やかな海辺の建物で、死んだ山田の心臓音を聴くという、幻のようなことが現実に存在している。
現実と幻、それを完全に分けて考える必要は、私にはもうないのかもしれない。私は現実の中の、最も幻に近い場所を歩く。一歩踏み外せば幻の中に飲み込まれてしまう危うい場所なのかもしれないが、その場所を歩いている時が1番生きていると感じられるから。書くことは、そのぼんやりとした境界を確認するための一番有効な手段なのだ。
いつか息子と娘と、豊島に行くことがあるかもしれない。その時、山田の心臓音とともに暗闇で点滅する光の中に、私が見るものは何か。そして、暗室から這い出て立つ波打ち際で、私が聴くものは何だろうか。そこにあるものが何であれ、ありきたりな名でそれらを呼ぶことを、私は決して許さない。
最後にもう一度断っておくが、これは勇気ある告白ではない。かといって苦しみの懺悔でもないし、希望に満ちた決意でもないだろう。ではこれは何かと聞かれたら、ただの記録だ、と私は答える。選んだこと、選べなかったこと、そしてそれを超えたところにあるものの記録を、ここに置いておく。
<参考>
公益社団法人日本臓器提供ネットワーク
心臓の音アーカイブ