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シブイのおつゆと中身汁

玉城愛(94年生まれ うるま市出身)

思い出のシブイのおつゆ

 「愛さんのすきな沖縄料理はなに?」ブラジルから来た沖縄系の友人とカフェでおしゃべりをしていたとき、ふと尋ねられた。ゴーヤーちゃんぷるー、豆腐ちゃんぷるー、沖縄そば・・・。すぐには答えられなかった。全部好き、選ぶことができない。
 すると友人は「わたしはシブイ(冬瓜)のおつゆがすき」と言った。雷に打たれたように「わかる、わたしも好き!!」と返事をした。沖縄の家庭料理の中で「シブイのおつゆ」が群を抜いて好き。わたしにとってシブイのおつゆは、祖母の味だからだ。友人と話をしながら、幼い頃の記憶が一気に蘇ってきた。

 幼いころ、父方の祖母マツがよくシブイのおつゆを作ってくれた。鰹出汁、生姜、ソーキ、にんじん、長ねぎ。ソーキがない日には、チキンが使われていた。小学校の低学年くらいだっただろうか。大根にはない、あのほろほろとした食感と、出汁の効いたおつゆ。

初めて食べたときの感動をいまでも覚えている。「おばあ、美味しい!」そう伝えると祖母は大喜びし、わたしが遊びに行くたびに作ってくれた。

もう一人の祖母の味

 おつゆの思い出は、母方の祖母マセにもある。マセの味は「中身汁」だ。味もそうだが、台所の「匂い」や「香り」が特に印象深い。マセが生きていたころの台所は、一年中、鰹節や椎茸、昆布、骨から取った出汁の香りがした。

 シチグヮチ(旧盆)や正月に市場を歩くと香るあの香り。マセの台所の香りは、あの香りにとても似ている。あの香りをを嗅ぐと、わたしはマセの台所にタイムスリップする。マセの台所が目の前に見える気持ちになるのだ。

あの香りは、マセから母へと受け継がれている。母は、お祝いごとやお正月になると、中身や豚の赤身をコトコト煮出す。

 肉の生臭い匂いをとるために、大きな鍋で何度も何度も湯掻いて「洗う」のだ。この作業をしている時、母はわたしに祖母の話をする。

 母が幼いころのことだ。祖母が肉屋に中身や赤肉を買いに行くと、悪いものを買わされてしまった。どうやっても中身の匂いが取れず、豚臭くて食べられない中身汁ができあがった。本当に臭かったから、食べ物を大切にする祖母ですら「かまんてぃんしむんどー(食べなくていいよ)」と言って泣く泣く処分したそうだ。「食べてみたけど本当に臭かったからさ、おばあは石鹸で中身洗っていたよ。あの当時はお肉買うって大変さーね。とってもかわいそうだったよ」と母は、複雑な表情で笑いながら話す。

 どの思い出も、わたしの、母の、幼い頃の愛おしくて尊い、大切にケアしてもらった記憶だ。祖母たちの味や香り、風景が、いまのわたしを支えているのだと思う。

生きるための香り、いのちを祝う味

 ちょっと寒い季節になると孫にシブイのおつゆを作ってくれたマツ。出汁の取り方や中身の仕込みを子どもに伝えたマセ。厳しい沖縄の戦後を生きていた祖母たちは、どんな気持ちで毎日台所に立っていたのだろうか。ふたりとも他界しているため、思いを馳せることしかできない。

 沖縄戦後、沖縄の人々の生活はとても苦しかった。戦争の影響は沖縄の経済だけではなく、衛生面や教育、「隣」にある暴力装置など、いまもなお沖縄社会に残る様々な問題に結びついている。沖縄の人々の痛みを言葉で安易に表現することはできない。

 そのような厳しい状況の中、祖母たちは日々の生活を営んできた。その営みの真ん中にあるご飯を作ること。作ること、食べることは、いま、今日、これからの日々を生きるためにあったはずだ。その味を食べるわたしは、祖母たちから「生きるための香り、いのちの祝い方」を教わったのだと思う。わたしの想像と思い込みでしかないのかもしれない。でも、祖母たちの営みは、いのちを祝うための香り、味でもあったはずだ。ちょっとおおげさな表現だが、そう思う。

祖母の味、つづく

 つくづく、わたしはなぜこんなにも「ふゆーなー(怠け者)」なのだろうかと自分に問う。祖母の中身汁のつくり方を母から教わりたい、美味しいものが食べたいという気持ちはある。ただ、ちょっと面倒なのである。年末に14時間以上も実家の台所に立つことを考えるだけで億劫な気持ちになる。映画を観てのんびりしたい。昼間からビールを飲んでだらだら眠りたい。けれど、もし母が明日急にいなくなったら、わたしの新年はどうなるんだろうという危機感もある。美味しい中身汁がなければわたしに新年はやって来ない。
 今年こそ、母や父を手伝いながら中身汁を作ってみようかと思う。レシピも書いてみようと、根拠のない余裕さえある。もし、そんな奇跡が起きたのなら、またこのコラムにわたしの気持ちを綴ってみようかと思う。

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