台風の日
山本ぽてと(91年生まれ 名護市出身)
物心がついた頃には、海から歩いて10秒で、築50年の、ネコが1匹と、ネズミとヤモリが30匹ほどいる瓦屋根の家に住んでいた。枯れた井戸と仏壇があり、ブロック塀にはツタがたくましく這っていて、物干し竿は潮風ですぐに錆びた。快適とは言えない家だったが、子どもなりに愛着をもって暮らしていた。
ある朝起きると、父と母がテレビを見ている。いつもこの時間はめざましテレビなのに、今日はNHKだ。テレビにはL字型にテロップが出ている。
「どう?」
と聞くと、
「うーん、北部は暴風域に入らんかもよ」
とマーガリンをたっぷり塗ったトーストを食べながら父が言う。健康に悪そうだなと私は思う。
L字型のテロップには、沖縄本島の地図の上に目玉焼きのような二重の円が描かれている。小さな赤い円は暴風域、大きな黄色い丸は強風域だ。暴風域なら学校は休みだが、強風域ならいつも通り登校しなければならない。
父が言うように暴風域を示す赤い円は本島中南部を覆っていて、私たちが住んでいる北部地域は黄色のままだった。そういう状態だと暴風域に入った中南部だけがお休みの時もある。昨日小学校では、花壇のプランターや靴箱、スノコなど、外にあったら飛ばされそうなものをクラスのみんなでせっせと教室の中に詰め込んだ。次の日は休校だと思っていたので、当然ながら私は宿題をしていなかった。
母が用意してくれたトーストにマーガリンを薄く塗ってかじりながら、どうか暴風域に入ってくれとテレビに念力を飛ばす。トーストを食べ終わると、県内全域バス運休の知らせがL字型のテロップに流れた。そうなると学校は休みだ。いいぞ、太っ腹な判断だ、と私は思う。
父は役所に勤めているので、台風の日は出勤しないといけない。母と私だけが家に残る。私はソファに寝っ転がり、いつもは見られない朝のテレビ番組をザッピングする。そうこうしているうちに、風と雨が強くなり、木の天井の一部から水が染み出てくる。母が洗面所から洗面器と、お風呂場からベビーバスを持ってくる。ベビーバスは私が小さかったころに使っていたものだが、今は雨漏りの水を受け止める時に活躍している。
パツンと音がして、部屋の明かりとテレビが消えた。
「あ、停電した」
と母が言い、携帯電話で近所の親戚の家に電話をかける。つながらなければ、ここ一体が停電したことがわかる。どこかで電線が切れたようだ。
母と私は押し入れの奥から大きなろうそくを取り出した。父と母との結婚式のキャンドルサービスで使ったものだ。ろうそくの表面には上から順に1から40まで数字が書かれていて、毎年1年分ずつろうそくを燃やすようになっている。私が幼稚園生の時までは結婚記念日に律儀に1年分燃やしていたような気がするが、以降は停電した日に取り出してでたらめに燃やしていた。
ろうそくをつけると、そこだけぼんやり明るくなる。目はすぐに慣れていく。私はソファに寝そべりながら、小さくゆれるろうそくの火を眺めた。家中の電化製品が動きを止めたので、外の風と雨の音がますます強く感じる。古い家を容赦なく風が揺らし、雨が打ち付ける。漏れ出した雨水が洗面器とベビーバスに落ちる音がはっきりと聞こえる。
いつもは外にいるネコは玄関でなにも言わずに寝そべり、ネズミもヤモリも声を出さずにじっとしている。生き物みんながひっそりと、この風と雨の音に聞き入っている。空気はぬるく、湿っている。私たちはこの時間をやり過ごすことしかできないのだ、と私は思う。
しばらくすると台所からシーチキンを炒めるいいにおいがしてきた。台所に行くと、
「ソーミンチャンプルーとポーポーでいいよね」
と母は私に聞く。私は黙ってうなずく。
ソーミンチャンプルーはツナの缶詰とニラが入ったそうめんの炒め物である。ポーポーはニラと卵と小麦粉を薄く焼いたもので(注)、一般的にはウスターソースをつけるが、我が家では上にキャベツの千切りをのせ、胡麻ドレッシングとコチュジャンをかけ、手で巻いて食べる。
台風の日は停電することが多いので、ガスだけで調理ができて、冷蔵庫の開け閉めが最低限な料理をよく食べた。もっと先、私が中学生になったころ、私たち家族はオール電化の新築の家に引っ越すが、台風で停電したときになにも作れなくなったので「ガスにすれば良かった」と母は言っていた。
ごはんを食べ終わってまたソファーに寝そべっていたら、
「トランプしない?」
と母が私に声をかけ、県内のリゾートホテルに泊まった時のおまけでもらったイルカ柄のトランプを戸棚から取り出した。
台風の日、特に停電をしたときはトランプをするものなんだと母はよく言っていた。負けず嫌いの母は、子どもとの勝負でも手を抜いたことがなかった。トランプを眺めながらニヤニヤと笑う顔が、ろうそくの火に照らされてよりいじわるに見える。勝負の時は、相手の嫌なことをするのが基本だと、私は母から教わった。
4回目の勝負が終わろうとする時、パチッとはじけた音がして、電気がついた。家中の電化製品が音を取り戻し、一気に騒がしくなった。母はどこかに電話をかけて、停電の感想について話し出す。テレビからは東京のデパ地下で人気のスイーツ特集が流れてくる。この台風なんて嘘みたいで、東京は遠いなと思う。私は負け続けのトランプを片付け戸棚にしまうと、ランドセルから宿題を引っ張り出して机の上に広げた。
次の日の朝、起きるといつものようにめざましテレビが映っている。父は起きてこない。母は早く朝の準備を終えなさいと るように私をせかす。友人のAがいつものように家に迎えにくる。玄関の引き戸を開けると、ネコが外に飛び出していく。海から吹きこんだ白い砂が家の前の道を一面に覆っていて、台風のあとのまっすぐな日差しが反射して、目に眩しい。
私はAと「昨日停電した?」と話をしながら、学校に向かう。朝の1時間だけ、いたるところに吹き込んでいる落ち葉や砂を掃除して、花壇のプランターや靴箱、スノコを戻す。私たちはいつも通り授業を受け始める。
※
18歳で上京すると、私の生活から台風は遠くなっていった。沖縄の台風情報を目にしても、東京は嘘みたいにいつも通りで、「気圧が低いとやる気が出ないね」と仕事仲間と言い合う程度だ。私はそのことをいつの間にか受け入れてしまっている。
時々、東京にも台風がやってくる。子どもの頃の、台風で休校が決まった瞬間の喜びの記憶が蘇り、それにいつもは無関心な東京のあたふたする様子がおかしくて痛快で、私は少し嬉しくなって、同時に決まりが悪くなる。
今思えば、子どもからは見えないさまざまな苦労が大人にはあったはずだし、家の中が安心できない場所だった友人たちもいたかもしれない。ケガをした方や亡くなった方もいただろう。沖縄でも東京でもどこでもそれは変わらない。そのことがわかる程度には大人になった。
それでも、容赦ない風と雨の中での、じっと息を殺していた生き物たちとの密やかな連帯、薄暗くて静かで気だるげな時間を、私は自分が子どもとして守られていた幸福な記憶として思い出す。
追記:今年の11月に沖縄県の北部地域に記録的な豪雨が襲い、浸水や土砂災害などの大きな被害が発生しました。被害に遭われた方々に対して心よりお見舞い申し上げ、平穏な日常が一日も早く戻るよう願っています。