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沖縄の星降る80年代 - 言葉と女と宝箱

玉城愛(94年生まれ うるま市出身)

「1980年代」というおもしろさ

 私にとって、80年代の沖縄は「宝箱」のような時期である。確かに存在していたはずなのに、まるで存在していないかのように皆に素通りされてしまう、そんな面白さがある。なんでなんだろう、目を向ければこんなに面白いのに! という気持ちになる。

 私は、沖縄で暮らしてきた人々の時間を、沖縄政治史的な区分だけで表現するなんて困難だと思っている。沖縄を統治する権力の変遷や、米軍関係の事件事故という切り口で捉えられがちな沖縄の歴史。沖縄という地域で生活を営んできた人々は、80年代に何を見ていたのだろうか。今の沖縄にどう影響しているのだろうか。今でも、私はそんな思いに突き動かされている。

 80年代が面白いと思ったきっかけは、大したことではなかった。大学生の頃、文学の講義だったか、やまと出身の男性教授が沖縄について語っていた。内容さえ覚えていないが、生意気にも「沖縄の人の気持ち、痛みもわからないのに、よく沖縄のこと自慢げに話せるな」と私は怒っていた。そんな記憶がある。その講義をイラっとしながら聞いていた時に、ふと疑問に思った。

「80年代の沖縄ってどんな時期だったんだろう」

 それからだと思う。私は、沖縄の80年代とその前後の期間に興味を持ち始めた。きっとなにもないわけはないと素朴に思った。気づかれていないだけ、見えないようにされていただけ。自分のおもしろいという気持ちに根拠なんてなかったが、誰にも目を向けられない、書かれて来なかったというロマンがあった。

1冊の本

 私はその「イラっとした」講義で、芥川賞作家の作品を読んでレポートを提出する課題のために、目取真俊の『眼の奥の森』(影書房2009)を買って読んだ。本に出会えたことには感謝している。

 目取真の作品を選んだのは、目取真の出身地が私の祖父母が暮らす今帰仁という地域だったからだ。私は幼い頃に遊んだ祖父母の家やふくぎ並木、砂利道、父がよく行く釣場、海岸線、畑、湾、太陽の傾いた夕暮れ時、真っ暗な夜、今帰仁のあの雰囲気を思い出した。目取真が描く物語の中の言葉や地形、登場人物、静けさが、妙に深く理解できる気がした。自分なりに物語の場面や人々の声、痛み、感情など、想像を膨らませながら読み進めた。

 沖縄で、米兵による性暴力の事件が沖縄で起こってきたことは知っていた。ニュースで見たこともあったし、いやだなと思いつつ、なんとなくぼんやりした気持ちや風景が広がっていた。想像力を持って軍事主義と女性に対する性暴力について考えはじめたのは、目取真の『眼の奥の森』を読んでからだ。

 それから半年ほど経った、2016年5月。私が生まれ育ったうるま市で、20歳の女性が元海兵隊員の男にレイプされたのちに殺害され、遺棄されるという事件が報道された。同世代の女性が元米兵にレイプされて殺されるという衝撃。事件の被害者は私だったかもしれない。私の友人だったかもしれない。性暴力の事件が単に昔のことではないという不安と恐怖に襲われ、身体が震える体験をしたのは初めてだった。

 私はもう一度、目取真の『眼の奥の森』を読み返した。1年ほど常にカバンの中に入れて持ち歩いていた。時間が止まり、とても孤独で、言葉が出てこなかった時期である。うるま市の事件が起こった頃、私は21歳だった。社会運動の現場でたくさんの沖縄の女性たちに出会った。女性たちの言葉を、思いを耳で聴いた。女性たちとの出会いは、後に80年代への関心と繋がることになる。

書かれてこなかった女性たちの物語

 それから約2年半後の2018年秋、私は80年代における沖縄女性の社会運動史をテーマに修士論文を書きはじめた。その論文の目的は、沖縄現代史の中で出てくる1995年の女性たちの社会運動を捉え返すというところにあった。沖縄では、1995年から女性たちによる運動が始まったわけではなく、その背景が80年代にあるという証明を試みた。特に私が着目したのは、「80年沖縄女の会」(以下、女の会)という女性グループだ。資料によると、メンバーの粟国千恵子は那覇市役所の職員、島袋由記は県庁の職員で、1980年から1990年までの約10年間活動していた。その後、会は休止している。

 女の会は、国連女性の10年(1976-1985)に触発された沖縄の女性たちによって立ち上げられた。大きな女性団体に属することなく小規模のグループという点は、当時の時代背景を表す女の会の特徴といえよう。女の会は、沖縄人および日本人男性によるアジアへの買春ツアーに反対する声を上げ、集会や勉強会を開催。1985年にケニアの首都ナイロビで開催された第3回世界女性会議NGOフォーラムにおいて、女の会メンバーの粟国と島袋はワークショップを開催している。NGOフォーラムでのワークショップ開催は、同年の1985年から2014年まで続く「うないフェスティバル」に大きな影響を与えた。沖縄女の会は、沖縄における家父長的な慣習に対して批判的な視点を持っていた。トートーメー(位牌)の継承とそれに関係する相続の問題、女性たちに強いられる行事の重荷、労働組合内の青年部による買春問題など、取りあげたテーマは多岐に渡る。

私と沖縄の行事

 今なお、沖縄における家父長的な慣習は根深く残っている。私の家も、行事の度にトートーメーのある長男の家にきょうだい皆が集まり、男性は居間でお酒を飲み交わす。女性たちは台所やその周辺で立っていたり、窮屈そうに座ったりしている。いとことおしゃべりに夢中になっていると、よそゆきな優しい表情をした母に呼び出される。4、5分は抵抗を示すが、どこか「目」を気にして私もその女性たちの一人に加わる。ある種の小さな政治闘争が行事の度に繰り広げられるのだ。私は親戚や家族の行事がきらいではない。ただどこかモヤモヤしてしまう。

 また、行事の度に私のことを「心配して」結婚や収入、こどもを早く産みなさいと言ってくる親戚のマダムたちがいる。まるで修行のようなその時間は、正直苦痛だ。忘れもしない出来事があった。2018年の元旦、「あんた、男がいっぱいいそうな顔してるね」と“新年のあいさつ”をされたときは、むなぐらをつかんでやろうかと思った。なんでこんなこと言われなきゃいけないんだと私は憤り、父や母とめぐる親戚周りの際には、私はここ数年ストを決行している。

80年代ってどんな時期だったの?

 私は、80年代の沖縄で生きた人々の言葉や芸術や文学や空気の中に、なにか新しい可能性が見えるような、そんな希望を抱いている。80年代の沖縄は、本当に空白で波風ない日々だったのだろうか。筆者の、生涯の趣味になるであろうこの時代の沖縄は、あまり誰の手にも触れられていない。私は、沖縄女性や社会運動を切り口に調査研究を行なったが、80年代に書かれた女性たちの言葉とそのエネルギーに触れ続けていたい。女性たちの熱を肌で感じ取ったとき「私も書きつづけよう」と強く決心した。

 80年代の沖縄を生きてきた人々は、当時をどう振り返るのだろうか。というのも、94年生まれの私にとって、80年代の沖縄はそんなに離れた時間でもないのに、なんとなく遠いのだ。

 ある日、母親に「80年代ってどんな時期だったの?何してたの?」と聞いた。母は目をまるくし「M(姉)が83年に生まれて、87年にT(兄)が生まれたさーね。出産したらすぐ子育てと仕事の両立がはじまった時代から、なにも覚えていないな。一生懸命だったわけさ、これでも」と笑った。私の口から咄嗟に「そうか男女雇用機会均等法が」と出そうだったが止めた。「なにも覚えていない」という感覚さえ、母の記憶と80年代の沖縄が、私のあたまの中で星が降るようにどこかで交差したからだ。


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