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わたしとピアノ①

遠い過去の話

実家を整理していて楽譜が出てきました。こんな難しい曲を小学校でスラスラ弾いていたのかと思うと、頭の中にクエスチョンがたくさん浮かんでいます(笑)

今日は、遠い遠い過去のお話をしたいなと思いました。

小学校時代、私は早期幼児教育で有名な桐朋学園の「子どものための音楽教室」を受験して通っていました。虚弱体質だった私は、ピアノを通じて子供時代に感じていた感情や感覚をストレートに音楽へ表現する小学生でした。

しかし、義務教育としては別の小学校に通っていたので、当時は、まるで二つの小学校を通っているような感じで、子どもなりにとても慌ただしい毎日でした。体力がなかった私のために、母はよく送り迎えをしてくれました。

高学年になるにつれて、桐朋学園の先輩である指揮者の小澤征爾先生に憧れ、私はいつしか音楽の道を歩むのだろうと心に決めていました。レッスンはとても厳しく、怖い先生に怒られながらも、自分なりに全力で頑張ってような気がします。

そして、家族はみんな私がピアニストになるという設定をしており、その期待に応えようと頑張っていました。

幼い頃からある程度の才能があり、3歳か4歳の頃には練習しなくても耳から聞いた音をおもちゃのピアノで奏でることができました。家族や母の友人たちはとても驚いていたのを、子供ながらに記憶しています。しかしこれは、単に生まれながらに絶対音感があっただけなのかもとも、思ってます。

フランスに行った話

12歳の時、私はフランスに渡りました。しかし、フランス人のピアノの先生が本気のアルコール中毒だったようで、お酒を飲みながらピアノを教えるというスタイルでした。子供の私には衝撃すぎなのと、お酒くさいのが本気で耐えられませんでした(笑)

次第にピアノのレッスンが楽しみから苦痛へと変わってしまい、レッスン自体が、嫌な時間へとシフトしてしまいました。まだ、12歳の私は、親のフォローが必要な年頃に一人で寮生活を送っていたため、なんとも当時の現状打破は難しかったのです。先生を変えることもできず、多感な思春期のころにピアノの学びがストレスとなり、高校2年のときには、完全に手を止めてしまいました。


あるとき、楽譜が読めなくなってしまったのです。

びっくりしたのとショックもあり、誰にも言えませんでした。
楽譜を見ても「おたまじゃくしが、うようよいる」という感覚でした。

おそらく、心が壊れていたのでしょうね。

親友にも言わず、私は心を閉ざしました。親も信じず、誰も信じない青春時代を誤魔化しながら過ごしました。それなりに、楽しい学生生活を送っていたことも事実です。ただ、潜在意識の深層にある問題点から逃げて、私は自分と深くは向き合わなかったのです。

小澤征爾先生との出会い

あれから数十年、私はピアノから離れ、東洋思想の専門家という立場に変わりました。全ては良い思い出として消化されていましたが、ある時、小澤征爾さんにお会いする機会がありました。会いたいと憧れていた方に音楽の世界とかけ離れた場所でお会いできるという、こんな運命がやってきました。今思うと、心の中の吸引の法則が発動したのだと考えています。

先生は私の目を見て、「僕はね、エネルギーを音楽で届けているんだ。君も同じだね。」と言ってくださいました。その言葉にとても感動して、私は涙が溢れました。彼の深い洞察と暖かい言葉に、私の心は深く動かされていました。

先生との出会いは、私にとって大きな転機となり、音楽とエネルギーの関係について再考する機会へと発展していきました。彼の影響を受け、私はさらに東洋思想と音楽的感覚の融合を探求することになりました。


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