指圧と野口整体②
野口晴哉の整体
体が整うということ
整体院とか整体師と名乗るとき、人はそれぞれ整った体がどんなものかを意識されているのでしょうか。
名は体を表すものであるので、きっと整っていない体を整える技術を持っている人が整体師を名乗り、その技術によって体を整える場を整体院というのだと思います。
でも、その理想とする整っている状態も画一的に一つのモデルがあるわけではなく、きっと整体師によって様々に目指す地点は違うのだと想像します。
私は、整体の教えを整体協会に入会して学んだわけでも、野口整体の流れを汲む先生に入門したわけでもない、高著でのみ学んだ全くの門外漢ですが、野口晴哉の宇宙に心酔しているといっていいぐらい、はまってきました。
なので、体を整えることが整体師の技術であるとは思っていません。
指圧師も整体師に準じると思っていますが、指圧をして、患者さんの体を整えようとは思っていません。
野口師が整体師が体を整えることを整体というとは仰ってないからです。
ということはどういうことでしょうか?
有難いことに、野口先生のお弟子さんたちもそれぞれに著されているし、教育や医学、仏教、哲学といった様々の分野の碩学の方々が、ご自身の興味のうえに、研究を重ね、ご自分なりの解釈を重ねて著されている書もまた膨大にあります。
そして、奥様の昭子さんの著書もまた野口整体理解のためには欠かせないものであることは、前回にも述べました。
野口晴哉という方はきっと、お釈迦様とか、空海のようなレベルの天才なので、野口先生が書き記されていることを、そのまま理解することは難しいことがあります。
なので、一番の弟子でもある奥様の著述を補助線として、野口整体とは何かに思い巡らします。
事程左様に万事がその調子なのです。
天才にはなにがわからないのかわからない。
その野口師の治療を求めて、毎日何百人という人が押しかけていたというのですから、時代が違うとはいえ、それこそ神の手と呼ばれるにふさわしい、次元の違ったものだったはずです。
その師が治療を捨てたと仰った。
そして、病気は他人に治してもらうものでも、専門家に任せるものでもなく、自分で自分の体を正し、管理するべきものであると仰っているのがこの整体入門の骨子であろうと思います。
なので整体師がすることは、その自ら治ろうとする働きを信じて見守りつつそばにいようとすることであろうと私は思うのです。
以前、小顔矯正や骨盤矯正という言葉に違和感があるということを書きましたが、それはそういう意味です。
目指すべき正しい顔のサイズや形があって、歪みを整える。
骨盤の高さや開きを正しく整える。
それは、私の思う整体ではないし、それを整体だと思ってほしくないなぁと、市井の一指圧師としては思います。
骨盤矯正という言葉は、接骨院の経営指導をしているコンサル会社が広めた言葉であると聞いたことがあります。
保険治療から脱却していく上で、産後のママの骨盤矯正と銘打って、回数券販売する手法です。
もちろん、良心的な技術で、産後の不安定な精神状態のお母さんをを支えてくれるような接骨院がほとんどだと思いますが、私の院に駆け込んで来られる患者さんのお話を伺うと、首をかしげるようなことばかりで、正直言って、家族には受けさせたくないと思います。
話が脱線しましたが、整体という言葉には正解はないものの、野口師の整体についての考え方がもっと世の中に広がることを願って書いています。
愉氣という言葉
愉氣という言葉は、野口整体の根幹となるワードのひとつで、簡単にいうと他人の体に息を通すことです。
私は指圧をするとき、いつもこの愉氣という言葉をこころにおいて、指圧しています。
最後の「物しか見えない人にはできない」…という言葉がドキッとするポイントで、筋肉とか滞りとか、物理的に手に触れるものに気をとられていると、愉氣にはなりません。
治してあげたい・・とかいう気持ちも、善意ではあっても天心ではなく力みになるのでご法度です。
そして、なにより、愉氣は私からあなた…への一方向ではありません。
必ず双方向のものです。
そうするうちに「自ずから整っていく」のです。
私があなたを整える…のではないのです。
野口師は明確に治療を捨て、活元運動を整体協会の道場でおしえる道を選ばれます。
それさえも、これをやると病気が治るとか健康になるというものではない・・と言い切る念の入りようです。
健康というものは人からもらうものではない。自分で作っていくものであるということが、野口師の信念です。
なので、私も指圧をしながら、私ができることは、あなたが治ろうとする力を信じて待っているだけ…と繰り返し繰り返し申し上げるのです。
「先生のおかげで楽になりました!」という患者さんの笑顔の報告は、麻薬のようで耳に心地よく、とてもとても嬉しいことです。
でもそれは、患者さんが自ら元気になられたことを、ただただ嬉しく喜ぶということで、私の腕がよかったのだ…とか、私の診立てが間違ってなかったのだ…と思った途端に天心から離れて邪が入った・・・と自分を戒めます。
そういった人間観、治療観と、指圧の技術を磨くことを両立することは、矛盾するのかしないのか。
そのへんのせめぎあいが面白く、いつまで取り組んでも飽きない、一生の問いであると思っています。
最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。