見出し画像

『ははのて』に何を想うか?

ははのてから連想すること

母性をなにに感じるか?


上掲の画像は「名古屋伝統指圧普及会ははのて」さんのInstagram画像からお借りした、梅村先生の手掌の画像です。

分厚くて大きくて、実際に触れてもらうと、指圧師にむいているとても気持ちのよい手掌です。

手の形状だけでいうと、女性的ではなく男性的な手掌です。

でも梅村先生の指圧をうけると、父の手というよりは母の手という感じが濃厚にします。

私の感覚は、なにをもって母の手と知覚しているのでしょう?

思い起こしてみると専門学校のクラスメイトは、男性女性ほぼ半々でしたが、10年近く前に受けた、そのクラスメイトたちの手掌はなんとなくイメージで覚えているものです。

男性はだいたい女性より大きな手をしていますが、分厚い人も薄い人も、骨ばった人も手指の細い人もいました。

そして女性にも分厚い大きい手をしている人がいて、触れられるだけで気持ちの良いうらやましい手というものはありました。

でも、その手にははの手という印象を持つかというと、そんなことはないと今思い出すと思います。

女性でも男性要素が強かったり、繊細な少女のような印象が勝つ人もいて、母の手という印象が残っている人はクラスメイトの中にはいません。

吉岡先生の手掌は畏れ多い気持ちが多すぎたのか、今思い出すと印象に残っていません。たぶん、手掌から放たれる氣の方に夢中になっていて手掌そのものに私の氣がむかっていなかったのかな?とも思いますし、単純に男性らしい手だった氣もします。

今思い出してみて、おひとりだけ「ははのて」と感じた先生がいらっしゃいました。何度か特別講師として鹿児島からいらして下さり、経絡治療学会の夏期大学でも講師をされていたO先生。

話がうろ覚えで、記憶間違いもあるかもしれないので、イニシャルとしますが、もともとすし職人をされていたというO先生の手は、大きく分厚く温かく柔らかかった。

O先生は、鍼灸の特別講師としていらして下さっていたのですが、あん摩マッサージも名手で、見事な曲手なども見せて下さいましたが、とても印象的な言葉があります。

(座位で)「こうやって患者さんの背中にじ~っと手をあてているだけでいいんだよ。そしたら、患者さんは勝手に必要なものを私から持って行ってくれるから。ほんでいらんもんは私が引き受けるから置いてってくれたらいいんやから、別にな~んもする必要ないんよ」

温かい優しい薩摩弁は再現できませんが、そのころ、いかに上手く的確に手技を繰り出すかに全意識が集中していた私には衝撃でした。

九州の専門学校で教師もされていたO先生は、「生徒たちには、『あそこ倶楽部』っていうサークルを作らせてるんよ。『あそこ俱楽部』ってなにかわかる?秘密結社みたいでしょ。みんなで集まって、かわりばんこに施術して、あ~そこそこ・・を、いっぱい発見する会なんです」(大笑)

ああ、いいなぁ・・・と心底思いました。
専門学校では、実技室が解放されていて、生徒同士で手技の練習をすることができましたが、そこでおこなわれるのは、実技の復習、手順の確認、実技試験の対策でしかなかったので、自分自身が気持ちよくなることも、クラスメイトを気持ちよくすることも、全く目的としていない施術だったのです。

もちろん、専門学校では国家資格取得のためということが第一義ですから、当然のことです。

でも卒業して開業した時、問われるのは「あ~そこそこ…」であると、私は当時から思っていましたし、その後の臨床を重ねて、更にその念をつよくしています。

「あ~そこそこ…」にあるのは、患者さんとの一体感です。
広い背中の中の捺一点。

もうそこしかないと思える一点を、強くもなく弱くもない適圧で圧されるその快感。

「あ~そこそこ…」と患者さんが思わず口にされたとき、私も同時に「そうでしょ、ここでしょ?」という、最高の快感を感じています。

その時が訪れるのは、わかってほしいとわかってもらえるが一致する信頼感、安心感があるときだけです。

生理学的な男女差とは関係なく、ものの働きには父性的なものと母性的なものがあります。

女性が母性的とは一概にはいえません。

例えば私は、永らくシングルマザーでしたが、マザーとは名ばかりの父親でした。

とにかく忙しい日常を乗り切ることに精一杯でしたから、社会的な約束事、たとえば保育園の開園時間に間に合わせることが一番、幼い息子が行きたくないと駄々をこねようと、かえるさんがいたと雨の中を観察しようとしていようと、引っ剥がして、保育園に放り込む。

仕事を終えて、迎えに行き、早く早くと急き立てて夕食、お風呂、就寝まで、常に時間効率を最重要課題として、親子ともども走り続けるわけですから、母性原理と思われる、優しく柔らかい寄り道回り道を含む曲線的な時間などは存在しないわけです。

学術的な定義はともかく、私が考える母性は柔らかい、全てを包含する、ジャッジしない…です。

現代社会において、早く、強く、効率的に、ということは父性原理のなせる業です。そうするためには、なにかを参照し、比較してジャッジすることが必要です。

誰かより優秀である、誰かより上手、誰かより早い。
社会的に承認を得る、経済的に成功する…などは父性原理における勝者です。

鍼灸指圧でいえば、一目で原因を見抜き、短時間で治療し、大先生と崇められ、弟子が大勢いて、権威権力があるという方向性でしょうか。

パターナリズムとして、圧倒的な絶対的権力を持ち、患者さんも恐れ入り、大先生の気合もまた当然一通りではなく、その氣に触れるだけで、一瞬で治る奇跡のような治療もあり得るカリスマ性をもつ治療師がいますが、それは多分にして、父性の強い先生であると思います。

母性においては、勝敗は意味をもちません。

ジャッジしない。判断しない。丸ごと受け入れる。

母の手の持ち主にはそういう母性のまなざしが不可欠だと私は思います。

私は男性であるO先生と梅村先生に、母のまなざしと母の手を強く感じたのでした。

母の手

ははのての指圧

盛大に寄り道しましたが、梅村先生の指圧に母性を感じたのは、先生ご自身がどんなことにもジャッジしない人生観に貫かれているからかもしれません。

どんなことにも、まずYESという。
相手を否定しない。
悪い所を探さず、いいところに目を留める。

だから患者として施術を受けにいくと、「先生、あのね…」と、私の意識ではなく、無意識が先生に聴いて欲しいことを語りかけようとする。

その時に、助けを求めている私の全身のツボやスジが発色しているように、先生には見えているのかもしれない。

だから、あんなにやすやすと手をあててもらうだけで、そのツボもスジもわかってもらえた安心感で消えていくのかもしれません。

私自身の母親はスキンシップが苦手だったのか、優しく手をあててもらったという記憶はありません。

母という言葉は、もちろん直接的生物学上の母親の概念が否応なく反映するものではあると思いますが、実際の母親がどうかとは関係なく、母なるものと読み替えていただいてもいいと思います。

母の記憶がない人でも、母との葛藤がある人でも、母なるものへの憧憬は身体に眠っていると思います。

哺乳類として、柔らかい優しい温かい肌合いのものに触れた時に、こころとからだがゆるむ感じは身体に備わっています。

緊張過多の現代において、安心で安全と感じる場で、ははのてによる指圧を受ける。

症状も原因も病名も、職業も属性も年齢も関係ない私。

この世にひとり生まれてきて、またいつか去っていく私。

それをただ喜んでくれて、ただ祝福してくれて、ただ素晴らしいと驚嘆してくれる母のまなざし。

私のもとに来てくれてありがとうと、ただただ喜んでくれる母のまなざし。

こんなに頑張ってるけど、こんなに失敗して、こんなに駄目な人間なのと嘆く私。

すごく頑張ってるし、そのチャレンジが素晴らしいから失敗もまた素晴らしいし、駄目な人間のわけがないじゃないという母のまなざし。

いや、本当は頑張ってるふりして頑張ってないの、自分のことは自分が一番わかっているから…と、否定する私。

なにを言っているの、頑張っているから、こんなに身体が頑張っているサインを出しているんじゃないの。自分のことは自分が一番わかっているなんて幻想よ。お母さんには、あなたには見えない傷が見え、届かない叫びが届くのよ…と母の手。

冷えきったからだには、温かく優しい柔らかい母の手。

じんわりとひろがる温かさ。しみわたる、いたわりに満ちた母の手。

許されている。認められている。このままの私を。

強がらなくていい、頑張らなくていい、背負った荷物をおろしていい。

そんなははのての指圧。

なにかに向けて努力をしても、努力をする元気もなくうずくまっていても、
ははのては、温かく見守ってくれる。

急かさない。指示しない。優劣をはからない。

私自身も信じきれていない自分の善性を、ははのては信じて見守っていてくれる。

そんなははのての指圧。

梅村先生が主催される名古屋伝統指圧普及会「ははのて」。

ははのてからの連想でした。


最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。