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指圧とカウンセリング②

指圧と傾聴

からだの声を聴く

前回の続きです。

前回、わたしは指圧をしながらカウンセリングをすると、テーブルと椅子でスタンダードなカウンセリングをするより、メリットが多い氣がするというおはなしをしました。

① からだの症状をカウンセラーとクライアントのあいだにおき、それについておはなしできる。

そして、そのカウンセラーとクライアントのあいだというのが、通常のカウンセリングルームで、カウンセラーとの対面型であると、クライアントのまえに問題があるけれども、指圧師が側臥位施術中は、クライアントのうしろにいるため、そのあいだとは、うしろになること、それが身体表現である症状に耳をすますことにつながることをのべました。

問題が目のまえにあると、人は目をこらします。

目を凝らすとは、字義通り、力が入るか脱けるかでいうと、入る方に傾きます。

でも、問題がうしろにあると、その気配を感じようと耳をすます。

それが、いつもとは違うモードへの入口になるように思うのです。

それは、古典的なフロイト派の精神分析のスタイルを想起させます。

精神分析のとき、クライアントは寝椅子に横たわり、精神分析家は寝椅子のうしろにいて、その夢や、自由連想を傾聴しています。

私は、フロイト派の分析を受けたことはありませんが、むかし、瀬戸内晴美だったころの寂聴さんが、いろいろ思い悩んでいたころ、フロイトから直接教えを受けて帰国した、精神分析家古澤平作氏に精神分析を受けた折、寝椅子で好き勝手にしゃべればいいので気が楽だったと書いていることをなにかで読んだことがあります。

たしかに、大先生がこわい顔をして前にいたら話しにくいことでも、うしろにいたら話しやすいだろうなぁと思ったことがありました。

カウンセリングにおいて、傾聴ということはよくいわれます。

こころの声を聴く。

わたしの尊敬する河合隼雄先生の高著にもあります。

カウンセラーの仕事は、こころの声を聴くことに尽きると思います。

では指圧師は?

からだの声を聴く。

そう、指圧師はおからだを触ることが、職業上の特性のため、まずおからだの声を聴きます。

おからだがなにを物語ろうとしているのかに耳を澄ませます。

西洋医学では、精神と肉体は分離していて、別々のものです。

精神の問題は、精神科が専門であるし、肉体の問題はまた更に細分化されて、整形外科や、循環器科や、胃腸科や…と問題があると考えられる臓器別に専門がわかれています。

でも東洋医学は心身一如という考え方が根底にあるので、からだの声を聴くことと、こころの声を聴くことは同じことであると昔から考えられていた学問です。

心療内科という科がありますが、それはとても東洋医学的な考え方の科で、あまりにも専門化、細分化されすぎた西洋医学のなかでのアンチテーゼのようなものなのでしょう。

話がすこしそれましたが、もともとが東洋医学に立脚した教育をうける指圧師は、本来、からだとこころの声を同時に聴いているはずなのです。

からだとこころ。

こころとからだ。

それは分かちがたく、本来一体のもののはずなのに、臨床で患者さんのことばを聴いていると、分裂してしまっているように感じることもよくあります。

からだが発している声を、こころが無視していたり、軽視しているようにみえることもしょっちゅうです

私は、患者さんのおからだが発している声を、お伝えする翻訳家のような氣がよくします。

声を発しているものにアンテナをあわせることは、比較的容易ではあるのですが。

言葉にならないことば


施術中に、雄弁にごじぶんのことを物語ることができるかたは、むしろ少数派です。

施術中にひとこともお話されない方も、いらっしゃいます。

基本的にわたしは、施術中にいろいろなことをお聴きしながら、また患者さんのおからだの声が物語っていることをお説明しながら、施術を進めますが、お話されない方には黙って施術をします。

語られないことに意味があると思うからです。

毎回、ほとんどお話にならず、お帰りにもほとんどなんの感想も仰ることなく帰られる患者さんもいて、基本的には喜ばせたい、笑わせたいと思ってしまう私は、反応が薄く感じられて、もう次は来られないかな…と思うのですが、そういう方ほど、きっちりと定期的に来られたりします。

これが、テーブルをはさんでのことだったら、わたしはこの沈黙をただ患者さんと共にあじわうことができただろうか?と思います。

患者さんのお顔をみることなく、黙々と言葉以外のものを聴きとることに集中できるからこそ、間を保てているのではないかとよく思います。

そういう意味で、私はカウンセラーにならず、指圧師になってほんとうによかったと思います。

悩んでいる人の横にいるとき、ただ、そばにいることの重要性はよくかたられますが、おせっかいの私は、ただそばにいるよりは、なにか働きかけることができることが嬉しい。

指圧は、とても非侵襲的な刺激です。

関西では、「いらんこと言い」と言いますが、言わなくてもいいことを言ってしまうことがあります。

アドバイスのつもりとか、なにかいいことを言おうとして、ドツボにはまるということは、個人的に私はよくおかす間違いです。

慎重なかたは、もちろんそんなことはないのでしょうが、私は、よかれと思って言ったあと、ああ、言わなかったらよかった…と落ちこむことがよくあります。

でも、黙って指圧をしている限りは、そういう侵襲的な刺激になることは避けることができる。

ただただ、おつらいであろうこころに届けと、手をあてている。

そういう時間でいられることは、どんなにありがたいことでしょう。

それを思うと、私はカウンセラーになれずに、指圧師になれたことを本当によかったと思うのです。

言葉にならないことばは、あえて言葉にしないまま感じるのが一番。

それは、指圧師が一番敏感に感じる醍醐味といえるかもしれません。

指圧でカウンセリング。

もっとそれが当たり前にどこでも受けられるようにならないかな…といつも思っています。




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