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君たちはどう生きるか


君たちはどう生きるか

ユングと河合隼雄

遅ればせながら、「君たちはどう生きるか」を観ました。

なんと、公開されてから半年以上経つ2月の立春にこの話題作を観てきました。なぜでしょう?なぜこのタイミングだったのか?

直接のきっかけは、小笠原和葉さんと仰るボディワーカーのVoicyを聴いたことです。


ごめんなさい、面識もないのに…(セミナー受講経験はあります)、勝手にシェアしていいものだろうか…と畏れつつ、もっともっと世に知られて欲しい方なので、勝手ファンとして取り上げさせてください。

わたしが聴いたのは最近ですが、収録は公開直後の8月です。
もうタイトルに「聞きしに勝る`がちユング‘」というワードが入っている時点で、ああもうこれはわたしのための映画だと思ってしまいました(笑)

番組の中で、東畑開人先生が『がちユング』と仰っていたけれど、観たら聞きしに勝る『がちユング』だったというお話。

『がちユング』を連呼され…てたかどうかは、わかりませんが、わたしの中でそれからず~っと『がちユング』が共鳴、反響していました。

ニュースでゴールデングローブ賞を受賞されたことや、評価が高いことは知っていましたが、7月に公開されて、まだ上映されている映画館があるのか?
慌てて調べると、よかった、まだ2月上旬は観られる映画館が結構ありました。

もともとわたしは映画は好きですが、アニメはほぼ観たことがない、スタジオジブリ作品もほぼ観ていない…という先入観のなさです(笑)

だいたいが、根性がねじ曲がっているので、メジャーなものがあまり好きではない…というか、興味がもてないだけなのですが、ディズニーランドもUSJも行ったことないし、ハリーポッターも全くかすりませんでした。

だから語る資格を問われれば、ないと断言できますが、それでも、宮崎駿監督の描く作品世界と、いわゆる心理療法のなかで触れるクライアントの心象風景との接点に関する類縁は、なんとなく目にしてきていましたので、きっとわたしの興味のある世界と地続きであろう…という気はしていました。

年末年始と、なにかと自分の精神世界のことは置き去りだったし、いろいろと先のことを考えなければいけない局面にもあり、また偶然にも…というより、意識的に立春という節目を、なんとなく意識して前日に予約してみました。

土曜日のレイトショー、2月上旬で上映終了・・というアナウンスの中でしたが、予約時点で全ての席が予約可能…という、ちょっと大丈夫かな?と思わせる感じがありました。

小笠原さんは、この映画を1人で観ることを推奨されていて、わたしもそのつもりだったのですが、まったくのひとりぼっちというのもなぁ…と、夫を誘いました。

夫とはたまに映画を一緒に観に行くのですが、ふたり共通で楽しめるのは、世代的にも「トップガン」「Dr.コトー診療所」「ボヘミアンラプソディー」といったあたり。

ちょっと好みに隔たりがあるように思えて、ちょっとマニアックかもしれないんだけど…と遠慮がちに提案すると、ジブリ作品は全部観てるから、一緒に観に行く…という予想外の答え。

へぇ~と思いながらも、上映館に入ると、うしろに3人、前に2人。合計7人での贅沢な没入体験となりました。


イザナギイザナミ

『がちハヤオ』

ネタバレするほどの解説力も解釈力もないので、平凡に感想を述べるにとどめますが、「聞きしに勝る『がちユング』」は真実でした。

ボーリンゲンの塔を彷彿とさせる塔。
老賢人である大叔父
昭和初期の設定にしてはおそろしく西洋的な屋敷や部屋
死と生の両面性を持つ母性
アニマとアニムス
少年の通過儀礼としての冒険ファンタジー

もうキーワードとしては、数え切れないほどの元型がこれでもかとでてきます。

でも一方で、日本神話の元型もふんだんに散りばめられています。

大火で亡くなる母。
産屋での見るなの禁忌
イザナギとイザナミ
ヒミという火を操る少女

これらのことを、わたしは河合隼雄先生の著作で読んできたというか学んできました。

グリム童話や日本神話、洋の東西を問わず、昔話や神話で象徴的に語られることに、ひとが生きてゆく上において大切なことを学ぶという姿勢。

「君たちはどう生きるか」を常に問われながら、では、わたしはどう生きるかを考えてきました。

河合先生はユングを日本に持ち込み、普遍的にされた最高の功績者ですが、日本の風土に合う、湿度の高い土壌に芽生えるこころのはたらきについての洞察は、当然のことながら、ユングを超えています。

ユングも東洋的な叡知を愛し、学んだ人であり、洋の東西にまたがった知の巨人ですが、西洋、キリスト教的な価値観の中に育ってきたからこその、欠けたる部分の希求としての東洋があったように思います。
土台は西洋。

それに対して、河合先生は日本の湿潤な風土に育まれ、戦時中に多感な少年時代を送られた。
そして、西洋的なものに惹かれて、アメリカに渡りスイスに渡って、西洋の価値観、深層心理と出会われた。
だから、順序としてはユングとは逆の東洋の上に西洋がのることになっていると思います。
土台は東洋。

この映画では、洋の東西を問わない、またはまたがった普遍的な物語が描かれているのだけれど、土台のところは、日本の土着の日本神話を色濃く映す日本の映画という感じがしました。

もちろん、海外で高く評価されるということは、共通の問題、共通の意識、共通の次元に全世界があるということであり、そこは矛盾しないと思うのですが。

宮崎監督と河合先生は対談もされているし、お互いの存在を充分に評価しあっていらっしゃいました。

これは宮崎ハヤオ監督から、河合ハヤオ先生へのオマージュではないのか?と途中から思って、わたしの中では、『がちユング』というよりも、『がちハヤオ』だなぁと思っていました。


すべてが繋がっている。

クライマックスのシーンで、わたしはなみだがとまらなくなりました。
それも右目だけ。
これって、なにか脳科学的な理由があるのでしょうか?

右目だけからつたう涙は、なにかを浄化してくれるでしょうか。

わたしにとってのクライマックスは、ヒミが眞人を産むために自分はまた生まれると言ったこと。
眞人が、「ダメだよ、また火事で焼け死んでしまう」と言ったその語尾を奪うように、「それでも私は眞人を生むために生まれてくる…それは最高のことじゃないか?」というようなことを言う。

どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか。

生まれることも死ぬことも、自分の意思でコントロールできない。

長く生きられなかった命も、果たせなかった役割も、後悔や未練の残る事故も、輪廻転生のなかにあっては、大きな意味をもつと同時に、負のことがらではないんだというメッセージ。

あの世とこの世を行ったり来たりしながら、いろいろな人間関係の中で色々な役割を交換しながら、循環している、すべてが繋がっているんだというメッセージと私はうけとりました。

すごい映画でした。

忘れていた感情や、むかしの自分や、当時の想いをくっきりと思い出しました。

これから、わたしがどう生きるかについても、激しく揺さぶられました。

長いエンドロールを見送り、場内に明かりがつき、ホールの外に出ると、
夫が、「なにがいいたいのか、さっぱりわからん映画やったなぁ!」
と、開口一番いいました。

ある程度予想はしていましたが、やはりそうきたか。

「ジブリの他の映画って、こういう感じじゃないの?」

「全然。この映画だけ、さっぱり意味わからん」

そんなわけはないのになぁ・・と思いつつ、わたしはこういう感想をもつ夫が横にいてくれて、本当によかったと思いました。

そうじゃないと、あの塔の世界から還ってこれなくなってしまうから。

彷徨うわたしの魂を現実世界に繋ぎとめてくれる役割を、夫は担ってくれています。

眞人と夏子を探し、守り、助け出した、現実的なあの父親のように。












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