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人生100年時代の白秋を現役で生きる



43歳でセカンドキャリアの扉を開く


陽極まる折り返しの時間

私の朱夏は30歳から始まった

古代中国の陰陽五行思想では、玄冬、青春、朱夏、白秋、という概念があり、人生に当てはめて考えられました。

それによると、人生は冬から始まり、幼少期は暗闇、原初の混沌の色、玄(黒)であらわされます・・・『玄冬』

やがて芽吹き、春を迎え、青々と茂り伸びゆく季節を過ごす人を青年といい、その時期を・・・『青春』

青年が中年になり、働き盛りを迎え、太陽が一番高く中空に輝く明るさになぞらえた季節を・・・『朱夏』

中年から高齢者に向かう季節、陽が極まる正午を超え、日没までの時間、実りの秋、収穫の季節を・・・『白秋』

と、考えられていました。

作家の五木寛之先生は、『玄冬の門』という著作のなかで、青春→朱夏→白秋→玄冬という枠組みで現代はとらえ直した方が理解しやすいと教えて下さっていますが、いずれにせよ、青春というイメージが20代前後であるということは、共通のイメージであると思うので、そこから話はすすめたいと思います。

昔より多様性が広がっている今、青春がいつまでかは、人によってそれぞれでしょう。

私自身は自分年表を振り返った時に、青春の終わった日というものが明確にあり、それは30歳でした。

23歳で結婚し、それと同時に結婚相手の実家の家業であった旅館の若女将として働いていました。

26歳の時に長男を出産し、保育園に預けてフルタイムのファーストキャリアです。

旅館のフルタイムは、本当に365日24時間のフルタイムです。
よく働き、よく遊びました。

そして色々なことが重なって、30歳の時に元夫が実家を出ていき、私と息子は婚家に留まり、別居してキャリアを続けることとなりました。

結婚しても、出産しても、守ってくれるものが明確にあって、毎日お祭り気分で働いていた私は、その日までが青春だったように思います。

そして、婚家に守られながらも、シングルマザーとして働きつづけた時代、30歳からがわたしの朱夏だったと感じています。

その時になんの資格もなんの特技もなく、婚家を飛び出して新しい職業につく自信がなかったわたしは、そのファーストキャリアを21年続けました。

息子が成人するまで、巣立つまで…という約束で、無我夢中で働き、途中で関節リウマチの闘病に悩まされながらも、あっという間の21年でした。

息子の高校入学と同時に正式に離婚し、その次の年に鍼灸指圧の専門学校に入学します。それが43歳。

1年半は昼は専門学校に通いながら、夜や土日は若女将として働く毎日でしたから、結構無理をしていました。

そして無理がたたり、体調を崩して、退職。
翌年に息子は高校を卒業して、首都圏の大学に入学しましたから、実質的な子育て終了となりました。45歳。

専門学校卒業と、国家資格取得が46歳。その年に再婚をします。

そして、48歳で開業。54歳の今にいたるわけですが、まだ朱夏の残り日は続いているような気がしています。

季節でいうと、9月後半ぐらい。温暖化のこの時節ですから、暦の上では秋と言いながらも、まだまだ暑い日が続いています・・という感じです。

でも、朝晩はハッとするほど冷える日もあって、季節は確実に秋に向かっているなぁという感じ。

時間で言うと昼下がり、14時ぐらいの感じ。まだまだもう一働きするぞ、できるぞ・・という感覚です。

なので、朱夏と白秋の繋ぎ目にいるのかなぁと体感では思っています。

寿命の延びがもたらしたもの

古代中国の寿命がどれくらいであったかはともかく
日本においての平均寿命は
1955年に男性63歳、女性67歳です。

子どもの頃に亡くなったり、戦争で亡くなったりなど、今とは時代背景が違うので、平均寿命で比較するのはフェアではないかもしれませんが、
2019年には男性81歳、女性87歳となっているので
64年で20年近く伸びています。

そして、平均寿命の推移を検索していると、こんな図表を見つけました。


90歳を迎える人の割合

なんと、女性のざっくり半数は90歳を越えて長生きするということなんですね。

私の祖母は103歳まで生きましたし、90歳を越える長寿者も近所には複数お見かけします。

ということは、青春のあとの朱夏も白秋も10年単位で引き伸ばされているということです。

よく言われることですが、サザエさん家族の波平さんは54歳、フネさんも50代です。

私も54歳ですが、波平さんが同い年なんて思えないわけです。

サザエさんが放映され始めたころの平均寿命でいうと、波平さんは、既に隠居間近で10年後ぐらいには、ご仏壇にご遺影が・・という年齢ですが、現代のイメージでいうと、75歳以上、後期高齢者ぐらいの感じです。

そのギャップを考えると、特に働くということに関して、20代で選んだファーストキャリアで、一生いくことって、本当に無理があるよなと思います。

朱夏はもちろんですが、白秋もまだまだ現役で働ける年齢です。

そして、青春期に選んだファーストキャリアで一生を貫き通すことは、至難の業になっているのではないかと思うし、その傾向はますます増大すると思います。

セカンドキャリアに指圧師のすすめ


陽が沈むまでにはまだ時間がある

わたしが、専門学校に入学したのは43歳のときでした。

そうか、10年以上前になるのか・・と感慨深いものがありますが、卒業してから7年なので、歴としてはまだまだひよっこです。

仮に、高校卒業してすぐに免許取得した人がそのまま歴を重ねていたとしたら、33年ぐらいになりますから、大御所とまではいえなくても、中堅というほど軽くない位置にいらっしゃる感じだと思います。

専門学校のときの同級生のうち、高校卒業したてで入学された方々が20人中6人、あとはさまざまな社会経験を経たのちの入学でした。

年齢も様々で、20代で早めに転職するつもりでの入学もありますし、一度目のキャリアを定年退職された60代の方もいらっしゃいました。

当時43歳のわたしは、上から数えた方が早かったですが、人生のステージとしたら、ちょうど真ん中のボリュームゾーンという感じでした。

そして、46歳で卒業して、48歳で開業し、6年が経過したところですが、今の感慨としては、この仕事、セカンドキャリアにぴったりだよなぁと思うのです。

そして、あと10年遅いスタートだったとしても、充分間に合ったとも思います。

何歳から始めても、それまでのキャリアがまったく無駄にならない職業なのです。

定年はありませんから、働きたいだけ働けます。
独立開業権があるので、誰も雇ってくれなくても平気です。
どこでだってできるし、飲食業や製造業のように、開業に巨額の準備金がいるわけでもありません。

私の夫の母は、83歳にして、現役の美容師ですが、地域のコミュニティセンターのように、近所のおばあちゃん方の井戸端としてフル稼働していて、私の憧れなのですが、あんな風に、わたしも80歳超えても現役指圧師として働きたいなぁと思うよきモデルです。

よくAIにとって代わられる仕事ということが、最近取りざたされますが、もし症例から正確にツボを選び、正確に治療できるAI鍼灸師なるものが開発されたとしても、マッサージ機が、AIを搭載して、凝りの分布図をカスタマイズして施術できるようになったとしても、私自身の施術の主眼はそういうところにはないので、なんの脅威もかんじません。

そして、開業してみてわかったのですが、自分自身がこんな場所が欲しかったと思って創った場所なので、同じように思ってくれる患者さんが、まったく患者さんじゃなくなっても、同志のようにわんさか集まってきてくれるのです。

もちろん、卒業していかれる人もいます。

でも、一生のお付き合いをお約束している方がいっぱいいて、どんどん増えて、私はほんとうに幸せな毎日です。

ささやかな人間関係、ささやかな対人援助で収入が得られること。

これは白秋期のキャリアとして最高ではないでしょうか?

こんな幸せなセカンドキャリアってある?って常々思っているので、そういうことも、これからも発信していきたいなと思っています。

ということで、告知です。


第3回指圧私塾in名古屋

午後からは、第3回指圧私塾という指圧実技メインの講座があって、私も登壇するのですが、午前中に、主催の名古屋伝統指圧普及会の梅村先生が東洋医学のおはなしを、オンライン開催でされます。

梅村先生も、セカンドキャリアで指圧師を選択された先生です。

東洋医学についてが入口ではありますが、その人間観、世界観は、青春期を過ぎて、改めてご自身のキャリアを考えてみようかと思っていらっしゃる方の大きな力になると思います。

新しいキャリアの扉を少しだけ開けてみませんか?

梅村先生のnoteはこちらから


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