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赤ちゃんも大人も、 同じように



「どういう社会を実現したいのか」


あるビジネス企画公募の説明文にこんな問いがあった。私はこの数ヶ月間少しずつ言語化してきた、自分が居やすくなりそうな、最低限の条件をひと綴りにまとめてみた。


結論は「全ての人が人として扱われる社会」だ。

理想としてではなく、私なりに妥当な線として考えている。




犯罪とノーベル賞の共通点


人が何かを考え何をするかを判断し実行するとき、それは過去の経験から導き出される選択肢から、経験的に獲得した判断基準をもとにその結論を出す。

経験と判断基準を作り上げる要素は、その人の生まれ持った能力(実力と成長しやすさ)と育った環境だ。


どちらも自分で選ぶ余地がない。


つまり、誰もが思考や判断を独自に生み出していないということだ。


犯罪を犯す人もノーベル賞を取る人も、偶然手に入れた能力と環境が作りあげた機能を発揮しているに過ぎない。



憎まれるべき対象は?


確かに、他人やその資産に危害を加える犯罪は憎まれて然るべき行為だ。しかしその犯罪が起こった原因を、実行者はどれほど自分で用意しただろうか。


もちろん犯罪の実行者は処罰され更生されるべきである。しかしその犯罪が起こった原因は、先ほど記したとおり本人が独自に生み出したものではないのだ。


そうだとすると、犯罪において憎まれるべき対象は犯罪という「事象」自体であり、それを生み出した環境であって、実行者ではないのではないか。


京都アニメーションに火を放ち36人を殺害した犯人。


彼は治療を受けた病院で「今まで人に優しくされたことはなかった」と話している。

彼は家庭や学校で愛情を受け(感じ)たり優しく接されにくい性質や環境で育ったのだろう。

彼を単純に悪人とすることに躊躇を感じないだろうか。


彼に同情して彼を許すように言っているのではない。彼自身を憎むより、彼が犯した犯罪自体を憎むような考えの方が道理に近いのではないかと言いたいのだ。

今、感情や人情のことは話題にしていない。どう感じるかはいつでも誰でも自由だ。


人を人として扱うとは


犯罪は起こした本人が生んだものではなく、育った環境と本人の能力の影響の与え合った結果が生んでいるという考え方が定着したとする。するとどのような変化が起こるだろうか。

まずは環境が改善されやすくなる。人が人として扱われないような環境が人の心を犯罪に向かわせるなら、それに目を向け改善することが犯罪への復讐となる。

人を人として扱うとは「決めつけず」「見守り」「受け入れる」ことだ。個人どうしの関係とコミュニティの仕組みがこのように変われば誰からも親切にされない人は減るだろう。


もう一つ、能力について。

能力の発達には得意な分野と成長の速度に個人差がある。この差を本人の努力で挽回できるかもしれないし、できないかもしれない。努力すること自体が難しいと感じる子どももいるだろう。


それは本人がどうしようもないことだ。

この事実を子どもも大人も理解しているべきだ。ただ知っているというだけではなく、空気のように当たり前で思考の基礎になるような理解だ。


どんなに仕事や勉強の成績が悪くても、不利益を与えられても、その相手の人格や存在が否定されるようなことは妥当ではない。


もちろん、見た目や動作をばかにすることもいけない。おかしくて笑うのは自由だろう。しかしそこに相手への敬意があるべきだ。相手の存在自体を笑うことは誰もしてはいけない。


方法は誰でも知っている


赤ちゃんを馬鹿にしたり、無視したり、罵ったりする人はほとんどいないだろう。

誰もが自然に赤ちゃんを人として扱うことができる。


「決めつけず」「見守り」「受け入れる」。



これが成長した人間が相手になるとできなくなる。おかしなことだ。



できることを期待し、できているかどうかを自分の基準で判定し価値を決めてしまう。

「それはそれ。人としてはしっかり生きててエライ!」とはいかない。



私たちは他人が自分に都合がいい対応をすることを期待してしまいやすい。


人に期待するならば、その相手にその能力や意向があるかどうか把握していなければいけない。それができないならば「願い」にとどめるのが妥当だろう。




まとめ


人は独自に思考していないし、判断もしていない。


ただ環境の影響を受けてその機能を獲得しただけだ。



それならば、どこの誰でも何をした人でも「決めつけられず」「見守られ」「受け入れられ」るのが妥当ではないか。



その方法はみんな知っている。


生まれたばかりの赤ちゃんのように、一つの命として相手を見ればいい。




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