『嫌い』という感情はすばらしい。
おそらく普通の人間なら、『嫌い』という感情自体を厭み嫌うであろう。
疎ましく思い、敬遠したいであろう。
しかし、私は『嫌い』という感情に好意を抱いている。
それが善いとか悪いとかの善悪ではない、
好意である。
素晴らしいと漠然と感じるのである。
この発端は15歳まで遡る。
私はこの頃まで『嫌い』という感情を知らなかった。
知らなかったというと大袈裟かもしれないが、他人に決して見せてはいけないものであり、自分の中で落とし前をつけるものだと思っていた。
だから、見ないフリ、見えないフリをしていた。
そのおかげで何度も死にたくなった。
相手に『嫌い』という感情を見せられない分、自分に向かうのである。
全ての物事は自分が悪いのである。
例えば、誰かが自分にとって不都合なことをしてきたとする。
でも、私はその人に対して『嫌い』という感情を持てないから、「この人はこんなに良いところがあって、たまたま私にひどいことをしてきたけど、この人は何も悪くない。悪いのは、そうさせてしまった自分なんだ。」と思う。
そうなると、もう死にたくなる。
こんな駄目な自分自身を殺していまいたくなる。
そんなことを15歳くらいまでやっていた。
その頃、自分は18歳で死ぬと思ってた。
よく死ななかったなと自分でも関心する。
そして、15歳の卒業間際、例の如く、クリープハイプの音楽と出会う。
尾崎世界観は衝撃的な人だった。
初めて知ったのは地元のカラオケボックスの店内でかかっていた曲。
妙に高い声と、言わなくてもいいことをツラツラ並べて歌っていて何故か耳に残った。
あの曲はなんだったんだろうと思いながら、もう二度と聴くことはないだろうと思っていた。
が、兄とスペシャのMV特集を観ているときにそれが流れた。
また衝撃を受けた。
『これだ!』
と目を丸くさせた。
名前も知らない人の名前も知らない音楽がやっとわかってしまった。
すぐに歌詞を調べた。
人からの悪意をこんなに意図も容易く転がして、最後には『余計なお世話だよ』としめる。
私は思った。
こんなに簡単に『嫌い』という感情を表に出していいものなんだと。
『嫌い』なんて感情を見せたら、嫌われるし、ただでさえいない友達が全員いなくなるし、私が我慢して丸く収まるならそれでいいと思っていた。
でも、その人はあんなに大勢の前で『嫌い』という感情を剥き出しにしていた。
一気に引き込まれた。
生涯二度目に買ったCDがクリープハイプの『吹き零れる程のi、哀、愛』になった。
そして、どんどん『嫌い』という感情を表に出せるようになっていった。
あまり聞こえは良くないが、他人のせいにもできるようになった。
これは私にとってはとても大きかったように思う。
もし、あの時クリープハイプに出会えてなかったら、私は自分自身を責め続けて、どこかで諦めて死んでいたかもしれない。
自分の悪意に飲み込まれていたかもしれない。
だから、他人を『嫌い』だと思えることは、自分自身を殺さずに生きていく為にも必要である。
素晴らしい感情に出会わせてもらった。
用法容量を守って使う分にはなんの問題もない。
そんなクリープハイプが、2019年11月16日をもって10周年を迎えた。
本当にバンドを続けていてくれてありがとう。
辞めないでいてくれてありがとう。
救ってくれてありがとう。
尾崎世界観が尾崎世界観でいてくれてありがとう。
拓さん、カオナシさん、ゆきちかさん、尾崎さんから離れないでいてくれてありがとう。
感謝の言葉を始めたらキリがない。
『嫌い』という感情を教えてくれて、
ありがとう。
お金よりもスキしてくれるとスキ