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自分の命なんてどうでもいい僕がNHKを辞めたくなる前の話【震災(中3)〜社会人】

今人生に迷いがあるので書いてみます。

皆さんはじめまして。今日も曇っていますね。震災からもう10年経ってしまいました。あの日、僕は被災しました。それなのに、記憶が薄れつつあることがどうしようもなくつらいし、この10年で自分は何か成し遂げたのか。残りはどれくらいあるのか?。未熟な僕はこのまま体力を失い、将来何も行動できなくなって、人生を振り返っても結局、何者にも成れていないのではないか。そんな不安に押し潰されそうです。これがどれだけ苦しいことか分かってくれる方、いますか?

とりあえず、何で僕は悩んでいるのか、自分の整理のためにもここに書きます。少し長いので個々人の判断で前半は飛ばしてください。

3月11日午後2時46分

僕は卒業式を明日に控えた中学3年生だった。共働きの両親は仕事。妹は小学校に通っている時間。僕は午前授業から帰った後、いつもの弁当チェーンで買ったチーズハンバーグ弁当の(ご飯大盛り)を食べながらテレビを見ていた。"それ"からの記憶は飛び飛びだ。

ちょうど中学校で初期微動継続時間について習ったばかりだったと思う。ご存知だと思うが地震というのはP波とS波に分かれていて、だいたいの地震はP波という比較的小さい揺れの後、ホンチャンのS波が来る。

"地面を伝って遥か遠くから地鳴りが
        響いてくるのを感じた。

 ググググググググググ

 再放送の刑事ドラマは遮られ、
 「緊急地震速報」のアラート音が鳴り響く。
 次の瞬間、尋常じゃなく大きな揺れが来た。

 グアングアングアングアングアングアン

 最初はそれこそがS波だと思った。

 家具が大きく前後に揺れる。

 今まさに揺れているという時、
 それがPかSかなんて分からないが、
 これ以上の大きな揺れは来ないだろうと。

 すでに立っているだけでしんどかったが、
 これで収まるだろうと。
 
 それでも第6感というのか。
 アラーム音に嫌な予感がしたか。
 フラフラと机の下に潜った。
 やばい窓開けてないな。
 ガスの元栓確認してない。

 そして次の瞬間...

 ドカン!!

 一瞬にして血の気が引いた。
 全身に鳥肌がたった。
 死ぬかもと本能的に感じた"

不幸な事に震度に「8」という値はない。
8も9も10も全部「震度7」として示される。
だから敢えて言うと、あれは「震度7」であって「震度7」ではない。「震度6強の次」ではないのだ。

その後も数千回の地震を経験することになるが(当時1日に200回余震があった)、「震度6強」までの地震は全て大したことないと今でも思ってしまう。

3・11に関しては、揺れの長さについても記録的なものだったらしい。
なかなか人に伝えるのが難しい。「数分続いた」と言われても、体感しなかった人はピンとこないだろう。どう表現すれば伝わるのか分からないが、おおよそ山手線渋谷駅から新宿駅に着くまでの長さだったようだ。

実は揺れが収まった後も異常さを感じた事がある。「静寂」だ。人間は日頃生きている中でさまざまな音に晒されている。車のエンジン音や風の音、換気扇の音などのほか、遠くの足音や話し声、もしかしたら飛び交う電波も"聞こえている"のかもしれない。だから何も聞こえなくなる瞬間というのは現代人には訪れない。

揺れがおさまった後、急いで窓を開けると驚いた。地面は割れ、電柱は折れ、家は倒れかかっている異様な光景が目の前に広がったことよりも、静かな世界に人間の悲鳴や鳴き声だけが何キロも先から聞こえたことにだ。見た目は同じだが急に別の世界に来たような感覚だった。

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揺れの直後、自宅インターホン

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大規模半壊の自宅マンション

『約200人の遺体が見つかりました』

ラジオニュースがそう伝えたとき、全身が震え上がった。実際のところ、ニュースが情報を伝えない限り、この震災がどれほど酷いものなのか当事者の僕らでさえ分からなかったのだ。目の前に倒れた電柱、崩れ落ちたブロック塀、血を流した人がいても、せいぜい数日で学校は再開されて、復旧しながらの日常生活が戻ると思っていた。だから初めて「とんでもない災害に見舞われた」と実感したのは、避難所でラジオニュースを聞いた時だ。

避難所の体育館では近隣の住民が集結して、電力を無駄に消費しないように複数人でラジオを囲っていた。流れてくるニュースは現実的ではなかった。『気仙沼で大規模火災』『仙台空港で航空機などが津波に流され...』そして『200人の遺体が見つかりました』。たぶん誤報だろうと本気で思った。不確定の情報なのだ。でも『遺体が200人』という言葉は、日本では現実離れしている。沿岸部に知り合いがたくさんいる。「もしかしたら知り合いがいるのではないか」と頭によぎっていた。

結局友達は死んだ

そして、悪い予感は現実となる。しかも亡くなったのは一人ではない。何人なのか実のところ分からない。いまでも考えないようにしている。震災が落ち着いてからも探そうとはしなかった。もっと言えば死んだあの子たちと自分が仲が良かったなんてことは、家族も含め誰にも伝えていない。目を背けているといえばそう。冷たい言い方だが、もはや震災全体の被害を考えれば、それが重要だとは思えない。

だけど、命を奪われた友人のうち一人は、揺れの直後連絡が付いたらしい。そう担任の先生が言っていた。安否確認のために電話した担任が「大丈夫か?」と聞いたら、「これから祖母と一緒に避難します」と答えたという。「安全に早く避難しろよ」。これが最後だ。その後、消息をたった。

別の友人は、通った学校は別だったが、地元が同じで部活終わりに近所のコンビニの前でたむろする仲間だった。大人や親に迷惑をかけるようなガラの悪いやつだったが、菓子パンとコーラで幸せになれる普通のヤンキーだった。そいつの消息は全く分からない。10年たったいまでは、彼と関わった時間は昨日の夢のようにぼやけてしまっている。

僕は友達を失ったり、家は壊れたりした。でも家族は死んでない。まだマシだ。

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          荒浜

「あれ、何で生きてるんだっけ?」

実は公立高校の入学試験が震災の数日前に実施されていた。だから震災発生時はまだ合格発表前だった。3・11以降は、ドキドキしながら発表を待つような余裕はなかったのだが、僕は無事に第一志望の高校に合格した。当然喜びなんて全くなかった。入学式はあったか、なかったか、もはや覚えていない。新入生には明るい人はいなかった。心なしか闇を抱えているというか、みんな授業を受けられる心持ちじゃなかった。そもそも公共交通機関も止まっている。それでも社会の流れにはついて行かなければいけない。僕らが一年休んだって社会は一年待っていてはくれない。不条理だ。

とはいえ、こちらとしては、授業なんてクソどうでもいい。だからクラスは荒れに荒れた。授業が始まると先生に対して消しゴムを投げたり、紙飛行機飛ばしたりするのは日常茶飯だった。武勇伝として語っているわけではない。かわいいものだが、これでも偏差値は県内で3番目の進学校である。僕も例外ではない。精神崩壊していたのだろう。

勉強も部活も恋愛も放棄していた。一番後悔してるのは当時交際していた彼女との関係を自然消滅させてしまったことだ。高校入学とともに僕は彼女との会話を避けた。向こうは音沙汰のない僕を二年くらい待っていてくれた。謝りたい。この記事を読んでいたら伝わってほしい、「本当にごめんなさい」

兎にも角にも人生は白紙になった。将来の夢は跡形もなく消え去り、頑張る事は心底無意味に感じた。とにかく僕の高校生活と大学入学直後までは、全くもって無駄な時間だった。何も成し遂げようともしていないし、思い出したくもない。色んなことを見失っていた。

僕は一体何になればいい? そもそも生きていること自体がまぐれなのだ。なんであいつは15年しか生きられなかったのかも分からない。人それぞれに生まれる理由があるんじゃなかったっけ。あいつはなんで15歳で死んだのさ。釈迦だかイエスだか誰でもいいけど、まさか『それでも彼らは生まれてきた目的を遂げた』なんて言わないよな。それはあまりにも無理があると思うよ。

「大地震なんてあったんやって感じやな」

大学で初めて出会った関西出身の友達はこんなことを言った。あの頃はまだ、「宮城県出身です」と自己紹介をすると、「震災大変だったんじゃない?」という言葉が必ず返ってきた。でも僕は震災のことなんて聞かれたくなかった。それは辛いからじゃない。「あの人は震災体験をしたからみんなよりハンデがある。丁寧に接しよう」なんて同情をされたくなかったからだ。だから僕は「中学校の卒業式してないんで、小卒からの飛び級です」いつもこんな微妙に不謹慎なジョークを言ってみせると、大抵の人は苦笑いくらいはしてくれた。憐れむような目で見られるよりその方がマシだった。

しかし、ついに例の言葉をかけられた時、心の中で何かが弾けた。大阪出身の彼が言うには「その時は部活中だったが、大阪もちょこっと揺れたものの継続した。家に帰ってみたら、津波の映像がテレビで流れていて『こんな大地震やったんや』と思った」という事らしい。

誤解されたくないが、僕は彼に対して怒りもなければ、むしろ全くもって妥当な感想だと思っている。でも心がざわつく理由は明白だった。

彼が気を抜いているからだ。

ある日突然、ある時間に突然、生活が壊れるなんて思ってなかった。ダラダラとテレビを見ながら弁当を食べていたんだから。前日には先生に悪態をついて、親に反抗していたかもしれない。要するに他人事じゃねえってことで、大阪や東京で同じ地震が起きたら、悲劇は繰り返されることが確定した。だから心がざわついた。

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信仰心は力を増し

ここで少し話を脱線

1821年、日本がコレラ流行の最中だった。この時百姓たちが松の木を乱伐したという記録が残っている。疫病除けの力があると言われる松を利用しようとしたと言われている。さらにこの年、迫害を避けて山奥などに隠れていたカトリックへの入信者が増加したという記録もある。その後人々の間でカトリックや東学が流行った。

もう一つ、面白い実話がある。ある宗教が「あくる年の年末に世界が崩壊する」と言った。「天国に行くためには神への貢物が必要」と訴えたところ、信者たちは団体にありったけの財産を寄付した。ところがどっこい、何事もなく年は明けた。

意外なのはここからだ。信者たちはどうしたと思う? 「みんな脱退した」のではなく、「神に自分の祈りが届いたから救われた」と考えて大喜びした。そしてますます団体へ寄付を増やしたのだ。

僕も人知を超えた力を体感してから、「人間存在とは何か」考えたくなった。どこかの宗教に入信することも考えたが、考えに考え抜いた上で僕の結論はこうだ。結局は「生きる意味を与えてくれる超越的な存在を誰にするか」という事でしかない。その上で僕は道を照らしてくれるのはどうしても神様だとは思えない。

僕を強くしてくれるのは"失われた沢山の命"だ

「何をヨリドコロとするか」の「何」が重要なのである。人それぞれ、何でもいい。神でも金でも愛でも平和でもいい。僕は「命」だ。自分はあの大惨事を経ても、偶然生きながらえることができた。死んだ人たちの分を代わりに生きている。託されている。だから僕は死んだ人たちの命が奪われたことに意義を与えることしかできない。なんならバチカンに言いたい。「津波にのまれた5歳の男の子がいたとしたら、彼はどんな罪を犯したのか」。僕はその子に言いたい。「もうこれ以上、誰も君と同じ辛い目には遭わせないよ。約束する」。

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       江戸時代のコレラ風刺画

就活はクソだ

僕の就職活動は迷走していた。迷走というのは内定がもらえなかったからではない。むしろ内定は大手から4つくらいもらっていた。それでも空虚だった。

まずは「新卒一括採用」という日本の就活制度に物申したい。職業選択の自由なんて保障されていないじゃないか。実に不自由だ。将来何をすべきかまだ決められていない若者も否応なしに就活させられる。この制度のせいで将来を考えるための時間を奪われる。いったいどれだけの人が適職や天職を見失ってきたのか。実際、やりたい仕事が明確にある人なんてほぼいない。それにやりたい仕事ができる企業なんてないんじゃないか?

ついでに一部の就活生にも物申したい。ある特定の企業が好きだという人もいるが、全く意味が分からない。自分が無いのか?と思う。どっかの企業が大好きで生きてる人間なんていない。嘘をつくな。そうだ、全国のみんなで就活をボイコットしよう。そうしよう。

.....ごめんなさい。

結局のところ、かく言う僕も一括採用の型にはまった。

とはいえ、100歩譲っても僕は自分の原点だけは忘れちゃいない。僕には社会貢献しか将来の道がなかった。今生きてる人たちを守るために自分の命を使わなければならないと心に決めていた。就職活動にその答えがあるなんて、毛頭思ってなかったのだが、型にはまったことを弁解させてもらうと、ある会社(「会社」ではないが)だけそれを叶えられそうな気がした。

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         色のない就活生

それがNHK

きっかけはある友人に「NHK受けてみないか」と誘われたことだ。受ける理由は先輩が受けといた方がいいと言っていたから。ただそれだけ。僕は友達に便乗して、とりあえずエントリーシートを出すことにした。はっきり言って、NHKなんて嫌いだった。番組はお堅くつまらないし、受信料制度なんてクソだ。しかもテレビ業界はブラック。それなのに倍率は高く合格するのは難しいと言われる。難易度が高いくせにモチベーションが全くないのだ。だけど、まもなくエントリーした事は無駄ではなかった知ることになった。

全ての面接で「学生時代頑張ったことは」なんていう薄っぺらい質問はされなかった。「動物に例えると?」なんて何が測れるのかわからないトリッキーな質問もない。「宮城県出身なんだ。震災大丈夫だった?」聞かれた。面接官の顔というか、目というか、人生経験に興味を示したのはここだけ。僕が受けたのは『記者職』だったから、今思えば報道機関らしい社会問題意識を問う質問だったのだろうが、当時の僕にとっては新鮮だった。

その後はとんとん拍子で最終面接に行った。最終面接で相手にするのは理事だ(一般企業で言う役員)。この時点で、ほかにも内定があったから最終面接も出てやろうくらいの気持ちで、NHKに決め手はまだ無かった。

運命を決めたのは最後の質問

「君は本当にNHKに入りたいの?」

意外だった。それは最後の最後に聞くべき質問じゃないだろう。「入りたい」と答えるに決まっている。

「これはきっと試されてるな」と思った。

だから仕掛けた。

「入りたくないです」。

これには向こうも驚いていた。

よし、してやったり。

続けて理由を説明した。「入りたくないというのは"NHK"の肩書きで動く人間になりたくないという意味です。僕はあくまで社会のため、人のために自分の命を使いたい。いま、それを実現するために最も適した仕事がNHKだと思い、最終面接にのぞんでいます。だからNHKでは社会貢献できないと感じたら迷いなく辞めます。もしここにその土俵があるなら僕をぜひ採用してください」

本心だ。

理事はしばらく沈黙した後、鋭い目でこう言った。

「そう言ってくれて安心した。うちに入りたいとかうちが好きだという人ほど信じられない」

決め手はこの言葉だ。普通なら即落とされる可能性のある就活生の生意気な発言に対して、真剣だった。NHK、捨てたもんじゃないなと思った。

人生は何が起こるか分からない。たまたま受けた会社の面接で最後に言われた言葉が僕の選択を変えた瞬間だった。

つづく


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