知ろうという気持ちは強い。 自分の好きなものなら、知らず知らずのうちに物知りになっていたという経験は誰にでもあるだろう。 人を好きになるのだって、相手を知りたいと思うところからはじまるし、異国の地に行ったらまずは色々知ることから始まる。 知ることすなわち学びであり、喜びでもある。どんなに色々捨てていっても知りたいという気持ちは残る。 今の時代、一番強く知りたいことは、仕事の意味だとか自分の生きがいとか、そういうことだと思う。 それを満たすようなことができたら、なんだか面白いし
手の込んだものもいいけど、シンプルなものもいい。 ただご飯を炊いて、それにふりかけをかけて食べる。 実は、それだけでけっこう美味しい。 ふりかけにはいろんな味がある。どれにしようか迷うのも楽しい。 ちょっと漬物をつまむのもいい。もし卵や納豆があったら最高だ。 あれこれ美味しいものを考えて、シンプルなものに落ち着く。それもまた楽しい。
今までそんなに良くないと思われていたことが、良いに変わることはある。 子どものころ、学校の保健室の前に保健新聞というものが掲載されていた。 健康や病気にかんするトピックを、子どもにもわかりやすく伝えるコラムみたいなものだ。 そこに、ゲーム脳というものがあった。 ゲームをすると、脳がおかしくなってしまうという内容だったと思う。 脳みそのイラストと、様子がおかしくなった子どもの写真が恐怖を煽るような内容だったと思う。 子どもながらに、そんなことはあり得ないと思っていたが、今ではそ
目の前の仕事に、迷うことはある。 なんのためにこれをやっているのだろうとか、これがなにかの役に立つのだろうかとか、そんなのしょっちゅうだ。 それでも、今やることの中で面白いことを見つけて、やってみる。 一つだけでも得意を伸ばしてみる。 それが、どこかで他のものとつながる。 昨日、ものすごい仕事の量をこなし、成果も出す人の記事を読んだ。 その人でも、スランプに陥るときはあるらしい。 どうしても、やりたくない。進んでいる感覚がない。それでも、自分が決めたことだからやり続ける。 一
たった2時間くらいのイベントをやるのだって、主催者や運営は大変だ。 関係者の調整もしないといけないし、アクシデントやお客さんの対応、事務的なことまでさまざまある。 どんなに準備をしていたって、当日になれば予定が変わることもある。 準備も大変だし、当日も大変。息を吐く暇もない。 これは、やったことのある人しかわからない。 もちろん、お客さんに迷惑をかけてはいけないのは大前提だが、少しの不便は目をつぶってあげたい。 誰かの楽しさを提供するためには、大変な苦労があるのだ。 イベント
同じ場所でも、定点的に観測を続けていると面白い。 街中だったら、どんなお店が新しくできるのか。 どんな広告が貼られるのか。 街を歩く人の様子はどうなのか。 四季を通じて、生えている植物は変わるし、体感温度によって気持ちも変わる。 毎日同じ場所を同じように歩いているように思えて、その実はけっこう違ったりする。 繰り返しに飽きたら、足元を見る。 今日、歩きながらそんなことを考えてみた。
昔、といっても学生の頃、自分は一人で生きていけると思っていた。 友だちがいなくても、そんなに寂しくなかったし、むしろワイワイやるのは好きではなかった。 しかし当然だが、それは間違っていた。 大人数が好きではなく、孤独を愛する人もいる。 それだって、たとえばペンで文字を書くときには、誰かが作ったペンを使っている。 ペンという発明さえ、何百年も前の人が開発して、多くの人が使い続けてきた結果なのだ。 iPhoneやAIよりもすごい革新が、ペンやノートの中にはある。 そう、人はひとり
ビジネスやテクニカルな分野が無駄だとはまったく思わない。 お金や資本によってまわっている部分はたしかに、ある。 ただ、それだけではうまくいかないのが、現代だ。 感情や個人の尊厳を満たしていくのは、文化だったり、アートだったり、自然だったりする。 余暇の時間も必要だし、学ぶ機会も必要だ。 そのためには安全が必要だし、経済的余裕も必要になってくる。 実は平穏をつくっているのは、政治や経済だけでなく、人が人たる所以のものなのだ。 人と会う、一緒にご飯を食べる、なにかに感動する。 そ
なにをするにも、コストがかかる。 お金、時間、資源、労力など。 パッと思いついてすぐできました、なんてことはない。 どんなモノ、サービスでも、コストつまり人の苦労がある。 お客さまとして当然のように振る舞っていれば、そういう部分は見えないだろう。 だけど、少しでも想像できれば、相手の大変さも分かってくる。 なんでも、当たり前にしないこと。見えない誰かの努力を想像してみること。 それだけで、少し感じ方が変わってくる。
スマホのあまり使わない機能に、動画撮影があるな、と思った。 写真は撮るが、動画はあまり撮らない。 ライブを観に行って、記念に少し撮るとか、イベントで動きがあるものをとることはある。 だけど、動画を撮っているときは対象をよく見られない気がして、あまり撮らない。 写真と動画の比率は、99:1くらいじゃないだろうか。 もちろん、手の中にビデオカメラがあるのだから、もっと動画を撮ってみるのはありだ。 だけど、なかなか見返さない。 一度、日常を撮ってみて、それを発信したら撮るのが面白く
雑多なところにアイデアが生まれる。 色々なバックグラウンド、真剣なぶつかり合い、それらが面白いものを生み出す。 なにも知らない人、新参者の方が常識を疑える。その組織で当たり前になっていることを外から眺めて、こっちの方がよくない?と言える。 それを受け入れられたら、もっとよくなっていく。 なにも考えない人が行動する。そうすると思いもよらなかったことが起こる。それがなにかを打破するきっかけになる。 よそ者や向こう見ずな人をどんどん歓迎する。それがより良いものを生み出していく。
今の子たちは、なんていうと年寄りっぽくなってしまうが、共通の話題というのをどうやって見つけるのだろう。 昔は同じテレビ番組を観て、学校で話したが、今ではスマホやタブレットでいつでも好きな番組を見られる。 もちろん、話題の番組、というのはあるのだろうけど、基本的にはなにを観るのも自由だ。 音楽やその他の娯楽だって、なんでも享受できる。 それでも、やはりコミュニティの中で流行はあるような気がする。 以前は、同じものの中で他人とは差異化を図って自分らしさを求めていたが、今は共通と同
もしスムーズに問題なくことを運ぶなら、考え方が同じ、もしくはイエスマンを置いた方がいい。 だけど、それだとなかなか面白いものはできない。 自分とは考えの違う人、なんならぶつかることが多い人を近くにおいた方が、そのぶつかりから面白いものが出てくる。 たしかに、ぶつかるには労力も感情も持っていかれるし、時に面倒なことも多いが、それでもぶつかることでアイデアは磨かれ、いいものが出てくる。 面倒なこと、時間がかかることを面倒くさがってはいけない。 顔を突き合わせて話す、時間をかける。
初めて訪れる街に行く。 当然、目的地がある。 そこだけでなく、周りをぶらぶら歩いてみる。 商店街やオフィスビル、公園などいろいろなものが目に入る。 そこに住む人や行き交う人の様子も見てみる。 急いでいる人もいれば、なにをしているのか分からないような人もいる。 そういえば、コロナが始まった2020年の春は、本当に街から人が消えた。 街はあっても人はいない。それは不思議な光景で、少し寂しい感じがした。 街を見て、そこにいる人を見る。 それが面白く、移り変わる街のデザインなんかにも
どんなモノやサービスであっても、続けていった先に不幸を感じるようなものは長続きしない。 必要不可欠だということは今ではそんなに大きくないし、目立たない。 必要ではないが、日常を彩る製品やサービスが増えた。 その中には、グレーなものもある。そこに需要があるから存在するのだという理論は、資本主義的には合っている。 だけど、問題が多発すれば規制が入り、炎上もする。 それらの仕組み自体がなくなるわけではないけど、やはり一過性の興奮や満足では、継続的な発展は望めない。 仕組みは自由です
ストレスの9割は人間関係、なんて言われる。 ものの言い方や態度はもちろん、根本にあるのは考え方、価値観の違いなのだろう。 違うというより、違うのを同じにしようとして失敗するからストレスになる。 相手を自分と同じに、を双方がやればそれは折り合いがつくはずがない。 とりあえず、自分がコントロールできることはやってみる。 例えば、相手が必ず理不尽に怒るであろうことを、やめてみる。 そうすれば、相手とぶつかることそのものがなくなる。 そうやって、相手とのぶつかり、すなわちかかわりを減