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【年齢のうた】ザ・スターリン●「Fifteen(15才)」に匂う純粋な少年性

名古屋に行って、とっとと帰ってきましたっ。
カミさんの実家がありまして、そこで親族のちょっとした集まりが開催されましてな。名古屋は自分にとって第2の故郷なんです(SUGIZO風)。4年2ヵ月ぶりでしたけど。
2019年暮れにナゴヤドームでTHE YELLOW MONKEYを観た時は、このカミさんちに泊まらせてもらったものです。翌日、ステーキのあさくまでランチを食べてから帰京しました。で、その2日後(元旦)に、今度は家族揃って名古屋に帰省……インターバル短し。そんな時代もあったねと。
今回ももう少しゆっくりしたかったのですが、仕事のスケジュールが入っていて、叶わず。吉芋花火を買いたかったな。

昨日はそのイエモンのファンミーティングに参加しましたね。ファンミってやつ。予想以上に感じ入るものがある夜でした。

そんな予定詰まり気味の日々の中、今回書く【年齢のうた】はTHE STALINの「Fifteen(15才)」です。

頭が漂白されていくような感覚のアルバム『虫』! そして「Fifteen(15才)」!


ザ・スターリンは80年代初頭の日本のパンク・ロックの動きの中でも重要なバンドだった。アナーキーやザ・モッズなど幾多のパンク・バンドが出てきて、バンド・シーンが騒がしくなっていた時期である。
スターリンの名はメジャーデビューの頃に知り、やがてリアルタイムで聴いた2作目のアルバム『虫』は衝撃的だった。直線的なパンク・ビート、駆け抜けていくばかりのギター・サウンド。そしてウェットな感情移入など許さぬメロディに乗る遠藤みちろうのヴォーカルは、破壊力あふれる言葉を突き上げるように連射していく。

ずっと聴いていると、頭の中が漂白されていくかのような気がした。高速でハイテンションで、ピークレベルに達したまま激走するような感覚。しかもどの曲もめちゃめちゃ短くて、その爽快さと潔さにもすさまじさを感じた。とくに「天プラ」と「アザラシ」には気持ちを大いに揺さぶられたものだ。
こんなバンドがいるんだ!?と驚くばかりだった。

ただ、自分はパンクに傾倒していたわけでもなく、ハードコア・パンクという言葉も遠くに聴いていた程度だった。この時から何年も経って、ハードコアのバンドのいくつかを知り、それ系のCDを聴いたり、ライヴにも少し行ったあとで『虫』を聴き直した時に、ああ、このアルバムにはハードコア・パンクの影響があったのかと思ったものだった。

さて、本題。
このアルバムに「Fifteen(15才)」という曲がある。アルバムではA面の5曲目。ほかのほとんどの曲同様に演奏時間が短く、やはりアッという間に終わってしまう。

歌詞も短い。ほんと、超短くて、短いどころの話じゃない。
何たって、遊びたい と 遊ぶ女は嫌いだ だけなのである。

それでいてタイトルが15才、と来た。当時は格別何かを考えもしなかったが、これはどういうことなのか。
思うに、遊びたくてしょうがない盛りの15才という年頃の、おそらく少年の気持ち。それから彼が女性に対して、遊ぶ女は嫌いと考えているという事実。このふたつのことを描いてるのではないかと考えられる。

これは遠藤みちろうらしいな、とちょっと思った。
当時のインタビューの類で、彼自身が宮沢賢治が好きなことや、ファーザーコンプレックスの傾向があると語っていたのを覚えている。そうした話も自分にはちょっとした驚きだった。
激しいパンク・ロックをやり、めちゃめちゃに叫んでいても、根っこには無垢さや純粋さを抱えてる人。インテルで頭もいいけど、表現に関することには正直な人。みちろうには、そんなイメージを僕は持っている。
スターリンを始めたのは26才で、ロック・シーンで知られるようになった時は30才という遅咲きだったことも興味深く感じた。

だから、15才の少年のことをさっきのような書き方で表現していることには、その中でのみちろうっぽさをつい探してしまう。少年の純粋な欲求と、それと同居している身勝手な姿勢。そのありのままの矛盾というか、だからこそのナイーヴな部分というか。
この曲には、そんな15才のイメージが自分のはるか頭上を飛び越えていくかのような感覚がある。とんでもない曲だと思う。で、こんなふうにあまりに語りすぎるのもヤボな気もするし、かと言って、何かを語らないことには始まらない作品だとも感じる。
1982年当時のスターリンにはそんな思い出がある。ただ、僕が都会に出る頃には、オリジナルのスターリンはもはや解散するところだった。

卒業式シーズンになると思い出す、スターリン版の「仰げば尊し」


ところで現在は2024年の春のはじめ。そろそろ卒業シーズンというやつを迎えようとしている。
これは意識すらしていなくて、時季的にはほんとにたまたまなのだが、スターリンはあの「仰げば尊し」をカバーしている。
その解釈の仕方はもちろんパンク・ビートで、バリバリと突き進むようなロック・ナンバーとなっている。ただ、さっきの『虫』のようなテンションではなく、この時はもはやバンドが違う段階にいる感が伝わってくる。

吐き捨てるように唄っているのがまた、みちろうらしいなと思う。

遠藤みちろうはすでに亡くなってしまったが、今思うと僕が彼にかぎ取っていたのは、日本人的な思考の仕方や因習、あるいはこの国の風土特有の叙情性や情緒に対するスタンスについての距離感だ。あれだけドライなパンク・サウンドを奏でていたスターリンだが、その爆音の裏側に張り付いているのは、日本という国で育ち、その習慣や価値観に縛られながら生活している自分たちのどうしようもなさ、息苦しさだったような気がする。重ねて言うが、それも今思えば、なのだが。

春というか卒業のシーズンになると、時々ではあるが、このスターリン版の「仰げば尊し」を思い出していた。僕はスターリンのライヴを生で見ることはできなかったが、遠藤ミチロウ(後年の表記はカタカナだったと思う)のソロでの弾き語りは何度か観たことがある。ボブ・ディランの「天国への扉」のカバーなどを唄っていた瞬間が脳裏をよぎる。
今年の春は、ひさしぶりにそんなミチロウの姿を思い出しながら過ごしている。


名古屋のホテルで
家族と食べたビュッフェ。
噂に聞いた以上のおいしさでした♬

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