考えるという生き方
最近の生活に特に不満はない。
あるとするならば、自分に対しての不満くらいだ。
“生”を全うしている以上、不満なんていう心の乱れは、金魚のフンのように付きまとう。
こんなにも、靄がかかる心など、早く無くしてしまいたい。
また新しい不満が出来てしまった。
もう、うんざりだ。
と、心が云う。
“無”になれたら、どれほど楽だろう。
そう思い、ふと知人に問いてみた。
私「もし、この世で皆消えてしまって、1人ぼっちになったとしたら、どうする?」
彼「とりあえず、1人になった原因を見つける為に、動くかもなあ。」
私「でも、自分以外に、人なんていないのだから、どうすることも出来ないんじゃない?私は、行動しても意味が無いし、動くことを諦めるかな。」
彼「…。諦めて何か変わるの?考えることを放棄して、逃げてるだけじゃないの?」
こんな小説の文中の様な、やり取りがあった。
人間なのだから、考えることを放棄してしまえば、誰だって楽になれる。
だが、考えることを辞めてしまった生き物を、はたして人間と呼べるのだろうか。
脳がなく、考えることすら出来ない海月でさえ、動き続けているというのに。
最後に、彼はこう言った。
「自分は、生きている以上、考え続ける。
考えるためには、知識がなければいけない。
その為に、自分は、常に行動を辞めない。」
と。
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