『マカロン』

好きとすきとスキ

見出しが見出しだが、決して私的
恋愛エッセイではない。
「好き」には色々な種類があると
思う。その度合いや尺度、条件も
あったりするだろうし、言語化で
きない「好き」もあるだろうし、
「好き」と「すき」と「スキ」で
も違ったりする。(noteの場合は
スキの表記となっているが、あれ
は何故なのだろうか)
自己紹介なんかで好きなものは何
ですかと聞かれて困らなかった事
はない。けれども実際困ったとき
は自分も人に聞いてしまうことが
ある。

好きの検証

 好き、は欲求に付随している感
情のことだと思っている。
 例えば、文章を書くのがすきな
のは、不意に文章を書きたいと思
うことがあるからで、形式によっ
て詩に、日記に、小説に、戯曲に
なり、シナリオになったりする。
絵を描く、歌を歌う(作る)など
も同様にそれをしたいと思う瞬間
があるから、好き、なのだろうと
、今まではこの欲求を、形式問わ
ず全て同一の欲求と理解していた
。文章を一つの例にとって考えて
みようと思う。

どこからが「文章を書くのが好き
」であろうか。
まず、紙を広げて無意味な単語の
羅列をしてみる。これは楽しいけ
れど、絵を描いていて楽しいのと
同じでそれ以上ではない。
次は自動記述的に、何も考えない
状態(無意識下)で文章を書き連
ねていく。これは楽しいが、やは
りボールペンを扱ってるのが楽し
い、とかキーボード打っているの
が楽しいでしかないので少し違う
ものだ。
一つお話をかいてみる。これは文
章を書くこと自体で満たされる部
分があるので、「好き」に入る。
では日記はどうか。これも書く行
為自体を楽しんでいるので「好き
」に入る。
大きく違ったのは、小説、シナリ
オ、戯曲などの物語を書こうとし
たとき、それらは文章を書く行為
ではなく、物語を考えて作る過程
の部分で満たされていると言って
いい。つまり、私の中で「文章を
書くのが好き」にあたるのはその
文章自体が大きな意味を持たず、
かつ私的である時がそれにあたる
訳である。
小難しく遠回りをしたが、これっ
てつまり、エッセイではないか。

検証結果

ここまでをもって自己紹介をする
ならば、「エッセイや日記やなん
かを書くのが好きです。まぁ、文
章を書く事は全体的にすきですか
ね」くらいのものだろうか。
何だろう違和感。それじゃない、
それじゃない、それじゃない。

確かに、恋人への「好き」が一度
のデートで満たされるかと言えば
そういうものではないだろうから
元の欲求が複雑化するほど、より
深く、強度のある「好き」になる
ということかもしれない。
だから認識を改めることにする。

元の欲求を一つの行為である程度
満たされるものを「すき」とし、
欲求が複雑化し立体的になるもの
を「好き」としてみる。
日記を書くことなんかは「すき」
であり、物語やなんかを書こうと
いうのは「好き」になる。
以上、今日の結論。

おわり

お気づきの通りかと思うが、この
文章自体が何かを考えて書かれた
ものではなく、ただ文章を書いて
いたい欲求を満たす為のものであ
り、私の考えている風を装ったフ
ィクションである。因みに、この
読みづらい改行は、使ったことの
ないガラケーに合わせて15文字に
合わせているからだ。ガハハハ。

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