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作品作りと禅の思想(中尾昌吾さんの個展に行ってきた)

8月21日(土)晴れ

新幹線で新潟に向かい、バスで30分ほど走ってARTギャラリーHAFUへ。
友人の中尾昌吾さんの個展を見にきた。

ギャラリーの周りはのどかな自然が広がっていて、夏らしくてとてもよかった。

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中尾さんの作品は岩絵具を使った日本的な作風で、僕の作っているようなデジタル的な直線やドットを多用する作品とは相反するように見える。しかし根底では仏教や物理学をコンセプトの下敷きにしてる点で共通しており、とても馬が合うのだ。

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僕自身、今はコンセプトや表現手段を事前に固めて、狙ったところに石を投げるように作品を作っているけれども、いつかは中尾さんの作品のように、偶然性という自然とコラボするような作品を作れるようになりたいと思っている。

それには岩絵具を使うとか、適当に線を引くような、表面的な物真似ではダメで、相応の技術と心身の鍛錬と、経験が必要となるのだろう。

僕は日本に弓道を習いにきたオイゲン・ヘリゲルというドイツ人の著者が書いた、『弓と禅』という本が好きだ。

師範に「的を狙おうと思ってはいけない」「まだあなたが弓を引いている」と言われ、「じゃあ誰がどうやって弓を打つのだ?」と壮大に戸惑う西洋人の著者が、だんだんと禅の無心や空の概念を理解していく記録の本だ。

師範はこういったらしい。
「引き絞った弦を、いわば幼児がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼児は考えない」

これを作品作りに置き換えれば、いいものを作ってやろうとか、うまい作品を作って褒められたいというようなエゴがある限り、禅の思想にはたどり着けない。おそらくエゴとは自分の意志であり、無意識に打算してしまう執着心のことを言うのだろう。

好奇心のみで動く幼児のように、なんの打算もなく、ただ「今」という瞬間にのみ繋がっているような境地。そこにたどり着いた時に、自分ではなく、宇宙と同期した「何か」が作り出す創造性が表出するのではなかろうか。世間のみならず、自分からも自由になった境地、本当にあるかどうかはまだわからないけれど、なかなか魅力的で、近づく価値は十分あるように思う。

僕は「円相」が好きで、よく作品にも使っている。それは形的にもコンセプト的にも完成していると思っていることが一つ。あとは禅僧の白隠による「円相」が、上記の『弓と禅』の思想をよく表していると思っていて、自分の中の理想だったりする。

白隠の円相は、もはや外面の良し悪しなど完全に超えていて、作品という粋に収まらない。それ自体がそれ自体として価値があるのだ。自分もいつかあのような円相を描いてみたいものである。

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中尾さんの作品を見ると、そんな禅的な良さを感じてしまう。考えてみれば中尾さん自身が禅的な人であって、作品が彼の人間性そのもののような気がする。僕より10歳以上年上だけど、子どものような好奇心と、世間にとらわれない性格、中尾さんと会うとずっと話していられるのは、そういう部分で共鳴しているからのように思う。

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ギャラリーには正午についたが、中尾さんや、ギャラリーを訪れた方々、あとオーナーの佐藤さんとの話に夢中になり、そのまま閉館まで居座ってしまった。作品作りも、生きること自体も、まだまだ深くいけそうだと期待ができる1日であった。

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