幼少期~大学生

人が好き、好奇心旺盛な私のストーリー。
1980年代両親公務員の元、仙台市に産まれる。
幼少期は母がフルタイム勤務だったため保育ママ
(自宅で保育してくれる、少人数制の保育園のようなもの。もう一人の母と言っても過言ではない)と祖母の元過ごす。
3個上の兄がいて、二番目らしく、周りをみて要領よく過ごした
幼少期。
母が忙しいので、「面倒かけないように。」と思って大人の振りして
過ごしていた気がする。
これも数秘9ゆえか。

運動はへたの横好きで、好きだけど、人並み。
イベント好きは昔からか、陸上記録会、水泳記録会などのイベントには
必ず参加。でも、人並みの成績。ふつう。
部活はバスケ部に入部。
スラムダンクが流行っててその影響。
ミーハーは昔から。
最近知り合った人はいろいろ運動してるもんだから
運動神経良いんでしょというイメージがあるらしく、
そう言われるけど、練習はさぼる。後輩に抜かれる。
さっぱり目が出ず、いつもベンチでスコア書いていた中学バスケ部時代。

勉強は国語が好きだったかな。算数数学は本当にできなかった。
成績はトップのクラスには入れないけどその次点みたいな感じ。
中学1年の初めての海外旅行でイタリアに行き、異次元の世界に
カルチャーショックを受ける。&その時の添乗員さんがかっこよく
私も添乗員になる!世界を股にかけて仕事をする!
海外留学に憧れをいだく中学生だった。

高校は大学もあるエスカレーター式の私立高校へ。
自由な校風がうりで本当にのびのび自由にさせてもらった。
部活はバスケ部に入るも部員が2人!バスケって5人だよね?え?
結局3か月で辞め、その後は生徒会へ。

高校1年の時、
その後の人生を変える、
自分の軸ができることになるスノーボードに出会う。
兄が先に始めていて、楽しそうでかっこよくて私もやる!と。
しかし、家族全員の反対にあう。
「運動神経悪いから。無理だから、お願い辞めて。」
とまで言われる始末。
そこで諦める私ではなく、スクールに入って習い
どんどん滑れるように。
親と一緒に休みはスノーボードに行き、
シーズン10日くらい楽しむように。
高校の友人ともバスを乗り継いでえぼしやオニコウベなど
行ったなぁ。

「趣味は?」と聞かれるとコレと言ったものがないものだから
。。。って困っていたけど、
「スノーボード」と答えられるようになった。
当時はスノーボード全盛期。流行ってたんです。
そして、中学の同級生とかちょっとイケてる友達と
比べるとちょっと地味だった私。
スノーボードのおかげで自分に自信がもてるように。

高校2年生の時は海外短期留学も経験。
高校のプログラムでアメリカはカリフォルニア近郊で
ホームスティをしながら3週間を過ごすというもの。
ちなみにお金払えばだれでも行けるやつね。
英語力はどうか?というと中学レベルに毛が生えた程度だったので
割と苦労したけど、辞書片手に伝えたい気持ちがあれば
伝わるんだということが分かった。
サンフランシスコ、LA、ヨセミテ、など有名どころへも
観光しに行きました。
親と離れて友人と先生と毎日楽しく過ごさせてもらい
そんな経験をさせてくれた親に感謝。
楽しすぎて夏休み明けの数学のテストで0点取ったことも
思い出。

大学は「海外留学する!」という夢を抱き、進学したはずが
スノーボード&ボディボードに明け暮れ、
単位ギリギリ、勉強もギリギリで卒業する状況。。
でも、多くの方と知り合い、いろいろな経験をして
見聞が広がった!(ということにしておこう)
経験したアルバイトは、
ホームセンター、巫女さん、試飲、電話の販売促進、
ケーキ屋さん、コンパニオン、学会秘書、英検監督、高校受験の監督、
大学事務室秘書、スキー場(レンタル&リフト係)、学会秘書、など。

スノーボード好きが高じて、
福島県のスキー場2か所に、山篭りバイトに。
仕事して、お金頂いて、滑って、、、と夢は膨らんでいたものの、
現実はそう甘くなく、日中は仕事、夕方からナイターで21時まで毎日滑る
という感じだった。
今思えば、朝活の原点だし、継続することの大事さをここで学んでいたのかもしれない。

さて、進路を決める大学3年生になり、
私も民間企業の就職活動をしよう!と。
やりたいこと、行きたい企業、業界一切なし。
土日休みの事務職で休みに海山行ければいいやと思っていた。
(なんて未来のない選択なんだ。。。今さえ良ければ良い思考)

親から大反対にあう。
「民間に行って何になるんだ」と。
(前述のとおり両親は公務員)

公務員を目指すことになり、
公務員の勉強をスタート。
公務員浪人として、卒業時就職も決まらず
予備校に行くことになります。



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