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死ぬまでに誰しもが捨てたいもの「楔のような羞恥心」

羞恥心を死ぬまでに幾つ捨てられるでしょうか

セッションをするなかで最近よく感じますし、自分のこれまでを振り返っても、羞恥心によって思ったような行動が取れないということがあるように感じます。

一括りに羞恥心と言っても、人それぞれで意味付けが違うところがありますから、定義付けして言葉を交わさないことには、同じ受け取り方をしているように表面上見えても、180度違うことがありえます。

それは、羞恥心って恥ずかしいと感じる心だよね、というところでは浅く、心の通いなく、如何なる所において、恥ずかしいと感じるのかと分つことを持って、心が通うたといえるのだと想います。

セッションをするなかで、露わになる心に打ち込まれたアンカーは、幾度となく、自分の行動パターンを規定していて、人生の中で起こる嫌な出来事は、抽象度をあげて見れば同じフレームにおさまることがほとんどのように感じます。

また、何か違和感を感じる事象に対して、こんなところが嫌です、などのデメリットは答えることができても、意外とメリットを考えてみるということが難しいものなんだと感じてます。

例えば、ドラえもんを見た時に、スネ夫はジャイアンに虐められたり、咎められたり、物を取られたりなど、一緒にいると嫌な側面が挙げられます。だけど、スネ夫はジャイアンから離れようとしません。

どうしてでしょうか。こんなにも嫌なことで溢れているのに離れないんです。

それはジャイアンの横にいることのメリットもあるからです。ジャイアンの横にいることでヒエラルキーの上位に存在することができます。また、ジャイアンという存在を虚構として扱い、周囲をコントロールすることもでき、それによって得ているものも大きいです。

それ故に、離れられないのではなく、離れないという戦略をとっているんです。この側面を見過ごしてしまうことが多いように感じています。

何か一方向だけの考えに執着しているときこそ、その反面を考えてみる。それもまた真なりのように想います。

羞恥心の解釈がありますが、
* 自己の存在が取るに足らない物と感じ、自己を否定したいと思う「全体的自己非難」
* 恥を感じる状況から逃げたい、もしくは恥を感じた記憶を消したいと思う「回避・隠蔽反応」
* 自分が周囲から孤立したと感じる「孤立感」
* 人に見られている、人に笑われていると思う「被笑感」

どれも抱えたり、囚われたりする必要は無いです。どれだけ生きている間に捨てられるか、といいますか、捨てる対象にもならないくらいなどうでもいいものなのだ、といった認知の方が豊かさを広げられるように感じています。

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