チェンソーマンと鬼滅の刃からモチベーションを考える
チェンソーマンのアニメが最終回を迎えました。
毎週の楽しみが減ってしまうのは寂しい気もします。
映画とか次のシーズンの予告があるかもしれないと期待していましたが、特に告知は無かったですね。
とはいえ、来年は春から鬼滅の刃の”刀鍛冶編”のアニメが始まりますし、夏には呪術廻戦の第二期が始まります。
また来年も毎週の楽しみがある生活を送れることに感謝でございます。
チェンソーマンの続きを漫画で読む
アニメを見終わった翌日、原作漫画を読むという行為を解禁して、パートナーの持っている漫画を借りて第一部の最後まで読み終わりました。
アニメの段階でも色々とクレイジーな展開が多い印象でしたが、
より一層クレイジーさが増していく世界観に翻弄されて、読み終わった後は脳みそが処理しきれずにボーっとしていました。
アニメ化が楽しみです。
ネタバレを恐れて考察のYoutubeを見るのも避けていたのですが、
考察のYoutubeを見て解釈しきれていなかったところを確認していると、
モチーフになっている話なども知ることが出来て、作品の深みを感じます。
チェンソーマンから感じる個人主義っぽさ
前にチェンソーマンについて書いたときには、主人公デンジから野性的なハングリー精神を感じるという表現をしました。
デンジはあまり”誰かのために”みたいな意識を全面に出してこなくて、
個人の利益の追求が結果として誰かのためになったり、社会の平和のためになっているという感じがします。
最近会社では、マネジメント層は部下の自己実現と会社の利益を結びつけるような役割を求められたりします。
デンジは公安で働くことで”普通の生活”を手にしたり、胸をもんだり、キスしたり、自分の欲望を満たすことができる一方で、公安にとっては悪魔を倒すという組織の目的を成し遂げるという構図は、
現代の会社のマネジメントの考え方と合致しているのではないでしょうか。
しかし、そういった考え方だけでは、個人の欲望が社会貢献と結びつかなかったり、組織の団結力を生み出しにくい部分が、難儀だと思います。
その辺り、デンジの上司のマキマさんは凄腕マネージャーだと思います。
原作の最後の展開などは、”権威と個人”というテーマも含まれているのではないかと勝手に深読みしたりしています。
鬼滅の刃から感じる集団主義っぽさ
一方で、鬼滅の刃の世界観は、時代設定が大正時代ということもあるのか、
集団主義的な価値観があるように感じます。
主人公の炭治郎は妹を始め周囲の人達のために身を粉にして戦います。
炭治郎が自分自身の欲望をモチベーションに動いている場面って殆どないのではないでしょうか。
また煉獄さんのお母さんが映画で以下のようなセリフをいう場面がありますが、集団主義的な価値観を強く感じます。
背筋がスッと伸びるような美しい言葉だと思います。
美しい考え方だと思う一方、
この思想が強い社会になったら、生きにくいだろうなと思います。
常に自分の欲望よりも社会を優先して働けと言われたら、いつか心が折れてしまいそうです。
鬼滅の刃の世界では、鬼殺隊の柱たちは全員、この思想のもとに責任を果たそうと力を尽くし、心が震えるような美談となっていますが、
現代社会で言えば、超絶ブラック企業のような働き方とも思えます。
世の中の偉大な仕事は、献身的な柱のような人たちが心を燃やして成し遂げたものもあるのでしょうし、
こういった価値観を一概に否定することはできないですが、
今の僕はそんなに強い心を持てないようにも思います。
まとめ
個人主義とか集団主義とか詳しく知らない言葉を使ってしまったので、
意味が違うとか色々あったら申し訳ございません。
僕は、デンジ的な思想をベースに生きながらも、たまに炭治郎的なモチベーションで心を奮い立たせて頑張る、という感じが自分には合うかなと思っています。
何事も、どっちかに偏り過ぎると上手くいかない気がするので、
バランスよく自分のモチベーションを保つ方法を模索していきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?