臓器提供と家族こと

少し時間ができたので、気になっている本をいくつか読んでいます。その中に臓器提供の事が書かれていた。先進医療として発展をとげる臓器提供と書いてある。私も臓器提供カードを免許証入れに入れてあり一定の理解を持っているつもりです。しかし、家族の立場になって考えた時に、その記事を読みながら色々思う事が湧いてきた。臓器提供カードは、その方が臓器を提供するかの意思カードだ。なので、故人の遺志を大切にするということで、カードのサインが重要視されるのだろうが、その後、残された家族がそれでよいかサインをする。
大切な方の死に立ちあう家族にとって、大変な決断をしなければならない。しかし、現場では、生前本人が希望している事それを叶えることが家族の役割のような重石がかかる。(医療従事者は臓器提供を煽る事はないが)家族は二重の悲しみ辛さ喪失を味わう。
また、臓器提供という言葉は、何か冷たさを感じる。
ヒトがモノになって、臓器が取り出され、運ばれてゆくイメージを持ってしまう。
現場のスタッフは、次の命を助けるため必死である。これも現実。
家族がどれだけ悩み、苦しむかということは「移植法」には示されていない。
文明の発展に命や倫理が問われる。時に失敗をする。「臓器提供」現在は聞き慣れたことばとなってきている。マネーのために闇の提供や人身売買に繋がっていることもある。その話になると家族の話からズレてしまうが、
改めて、臓器提供(生と死)を文明の視点でなく、文化の視点で捉え考えることが大切ではないか。
家族への配慮、家族ケアは、臓器提供の発展をするうえで欠かせない、家族が臓器の提供を断ってよい前提が社会の当たり前になってほしい。その過程の中で、命が繋がることを切に願う。

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