見出し画像

僕はスーパーマン、あなたは?

知的障害、境界知能とされる人たち、普段は余り気にする機会が少ないかもしれませんが、こうした社会的弱者とされる人々は5人に一人の割合で自分たちの周りに存在しているそうです。

自分にとっては当たり前だと認知していることも、例えば境界知能とされる人たちにとっては、なんら当たり前ではないのです。

境界知能とされる人たちは本人も自分がそうであると気づいてない場合がほとんどであり、本人が自覚がないということは、周りの人々はなおのことそうと認知することが難しいものとなっています。

これはつまり、普通の人たちにとっては当たり前の意思疎通が困難な人々が実は相当数存在していて、尚且つそのことが認知されぬまま時代がどんどん先行している現状であるということ。

よく話題となるSNS上でのやり取りのトラブル、その多くは認識の違いによって起こることとされていますが、かなり大きな部分で単純な認知力が関係しているのではないかと思います。

特にTwitterなどでは、文字数が制限され文脈を正確に伝えることは難しく、その上でツイートする側と受け取る側の認知力の差異がそのトラブルの大きな要因となっている。

例えばインフルエンサーのツイートに対して、まるで無関係なリプライを送り続ける人々などがこれに当たります。彼らにとってはツイートの内容が文字通り理解できていないだけなのです。

わからない言語を翻訳機にかけ、誤訳された内容にそのまま答えているような状況、それがどんな悲しい意味を持つかお判り頂けるでしょう。

またそうした認知力の欠如した人々のツイートについても同様に、物事の認知について誤ったまま認識のもと発信が行われ続け、その発信にまた認知力の欠如した人々がリプライをつけるという、負の連鎖がSNSの世界で繰り返されています。

純粋に伝える力と読解力の不足、それに認知バイアスの違いが折り重なってトラブルとなり、SNSの機能上の未熟さも相まってそうした問題が浮き彫りとなり続けている。

では実際に相対してのコミュニケーションではどうでしょうか。
スマホでやり取りしている場合とは違い、実際に会って話すとこうした問題はほとんど起こることはありません。

これはきっと人間は直接のコミュニケーションにおいては言葉を用いた会話だけでなく、身振り手振りや声のトーン、そしておそらく目に見えていない相手からのナニカを感じ取って応対が成立しているように思うからです。

文字からはわからなかった相手から受け取れる情報量が数段豊富であることが一番の理由でしょう、やっぱり直接って話すのは大事。

とはいえ、間接的であれ直接的であれ、人間関係の行き違いのトラブルには生きている限り必ず見舞われます。

日本人同士が日本語で会話をしていて、お互いに何気なく意思の疎通が図れていると思い込みがちですが、そもそもそれが誤り。

勿論、会話におけるすべてについてチグハグになっているわけではないので、会話が成立しているかのように感じますが、大体の会話はかなり早い段階で破綻しています。

今から7年ほど前に『自分が友達だと思っている半数はそうは思っていない』という、とても悲しい認識の違いを取り上げた研究結果が話題となったのをご記憶の方も多いのではないでしょうか。時代の変化に伴い人間関係についての価値観も変容しています。

そうした行き違いによるコミュニケーションが直接であれ、間接的(ネット上)であれ、当たり前の日常になると、人はだんだんとそれに慣れ、ますますその後の会話が無味乾燥なものとなってゆき、なんだか味気ない日常、無気力な人生へと繋がっていきます。

このように一見してそうとはわからない、運動機能にハンディキャップがある人と同じように、自分たちの周りには認識している以上の方々が精神的なハンディキャップを人知れず持ちながら生きているのです。

僕イケメン、でも本当は?

僕は社会的に弱い立場にある人々をなるべく見ないようにしてきたと思う。

そればかりか公共の場におけるシステムは基本的に誰にでも使いやすいように配慮が施されていて、そうした心配りに頭が下がる一方で一抹の胸のつっかえを感じ生きてきた。

誰にでも有用な配慮、自治体の窓口、病院の受付、免許更新での応対など、ちょっと過剰過ぎないかな? 窓口の職員の皆さんの精神的な負担が大きいだろうとそんなふうに懸念していた。

しかし自分にとっては過保護過ぎると感じられる応対も、ハンディキャップをお持ちの方たちのためなのだと、齢半世紀も重ねてようやく気付く有様。

マイナンバーカードの手続きや確定申告などはすでに自宅から行うことができ、コンビニでは住民票の写しなども簡単に取得できます、こうした公共サービスは多くの皆さんが当たり前に利用されていることと思います。

でも一方で新たに導入された手続きに際し、必ず新しい知識や段取りが必要となり、一部の人々にとっては敷居の高さを感じざるをえない状況。

最近つくづく思うのです、自分がなぜこんなにもあらゆることを当たり前にできるのだろうと。つまりは何事も当たり前にできない人たちのため、自分がスーパーマンに生まれたのではないか、そんな傲慢な思いに駆られる。

子供の頃より運動も人並み以上にできましたし、常に周りには笑顔あふれる友人が沢山いて、時には女の子にもモテました。

まったくといって良いほど勉強をしませんでしたが、成績はいつも狙ったように真ん中。

裕福とは言えない家庭、だったらと手に職をつけるための高校へ進学しそのままエスカレーターで就職。

職場でも労せず成長を重ね、将来を期待されました。

……でも何か違うと思ったのです。

それからは勇み足の日々、自分が何のために生まれたのかわからなくなったのです。

自分の周りは己の栄達のために我良しと我先に走り続けています。

僕は彼らのその姿が醜く見え、どうしても横に並んで走りたいと思えなかったのです。

そんなことを思い巡らせている僕の横を大学を卒業し、大きな夢を持って勇ましく歩んでいく同世代の子たち。勢い良く走りだす彼らと並んで前進する気力を失っていた僕は早期リタイア。

であればいっそのこと、この世界からいなくなりたいとそんな風に考えながら陰鬱とした日々を過ごしながらフリーターをしていました。

(今にして思うとその頃から僕は自分がやりたくないことはなるべくしないようにしていたなと、自分でも感心します)

そんなある日のことでした、ネットを通じて現在のパートナーと出会いました。すぐにそれとわかりました、普通と違っている人でした。

でもだからこそ守りたいと思いました、ついに僕の力が必要な人に出会ったと思いました。僕の中の天才が、「ついに出番か」そんな感じで満を持して立ち上がったのです。

それからの僕はアイアンマンよろしくジェットエンジンを全開で、誰よりも早くこの世界を飛び回りました。

周りの人たちはズルイと指さします。

「学歴も生まれも卑しいくせに!」「一度は逃げたくせに!」

でもそれが何だっていうんでしょう?

僕は愛する人を守れればこんな世界壊してもいいと思っていました。

そんな僕にパートナーはいつも笑顔で「私はただ一緒にいられれば幸せよ」そう言い無理をしないでねと抱きしてめてくれました。

そうしてまたエネルギーをチャージした僕、アクセルを緩めることなく飛び続けました。

……でもそんな日々は長くは続きませんでした。

気づくと僕は、肉体の疲労と精神的なストレスでおかしくなる寸前でした。

いつも向日葵のようであったパートナーの笑顔は失われ、表情は暗く曇っていたのです。僕は知らなかったのです、僕こそがきっと『境界知能に属する人間』だったのです。

スーパーマンでもなんでもなかったのです、ただの愚か者でした。

僕のせいで愛する人の笑顔は失われ、ときに涙を流させました。

「何が命を懸けて守るからだ…」「大切な人に悲しい思いをさせているただの無能だ…」「僕なんてただ運が良かっただけじゃん」

ガムシャラに生きた先で、ようやくそのことに気付けたのです。

……それだけではありませんでした、僕はいつしか軽蔑していた『我良しの我先の人々』と同じ人間になっていたのです。

とにかく自分たちだけの幸せを享受しようとしました、周りをとにかく無視し続けました。

……このように誰しも無意識に愚かな自分の人生を生きている。

今ならまだ全然間に合います、願わくばより自分らしい、本来の生き様へと舵を切ってください。

スーパーマンなんかじゃなくていいんです。

運がいいのは周りの人々が助けてくれるから、つまり自分らしさの結果。

世界は後回しでいい、自分の身近の愛する人々を守ってあげてください。

それはきっとあなたにしかできないことなのですから。


タイトルイラスト

著者プロフィール

いつも本当にありがとう。 これからも書くね。