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結果に固執しない爪痕を残さない生き方

人はある程度年齢を重ねることにより、自分のことも含め周りのことなど色々とわかってくる。

例えば私たち人間は体験のために生まれてきているのだよということだったり、自分の肉体が体験するための大切な存在であることや、自分の周りというものが自分の体験にとって必要不可欠な存在であるなどなど・・だ。

私たちにとっての体験とは、私たちの思い付きから生み出される衝動の結果のことである。

もう少し簡単にいうなら、思考し行動した結果である。

思い付きを行動に起こし、その体験をした時点でそこがひとつのゴール地点なのだ。であるにもかかわらず、私たちはこの段階で毎回必ず同じ自己矛盾にぶつかる。

それはその結果に固執しようとする、ということだ。

つまり私たちは何故か体験だけで満足せずにその結果にまで注文を付けてしまいがちだということです。

この無用な結果へのこだわりによって、大小様々な過ちが繰り返し引き起こされることになります。

その上、挙句の果てには自分自身にとって最も大切な思い付きにまで疑問を抱き、あれやこれやと不要な思考を巡らせはじめます。

自分の思い付きはちょっと変なのかな?

こんな突飛なことしちゃだめだよね?

そんな風に誰に言われるでもなく、自らその思い付きに否定的になります。

ここで一度整理しましょう。

まず私たちは思い付きを行動に起こし、体験する、それが人生のほぼすべてです。

私たちは元より体験の結果を欲しているわけではないのです、ましてや自分の思い付きがどういうものであるかなど考える必要もないことなのです。

この世界の大前提として、私たちの元へまず思い付きがやってきます。
これはつまり、世界(根源)が体験してみたいことが思い付きとしてやってきているのです。

それは自身のみならず、この世界で最も重要なことです。
私たちはこの世界(根源)の代理人であるということです。

でもそのことがあまりにも日常的であるがために、私たちはついついその重要性を忘れてしまいがちなのです。

私たちは今一度、自分の中にやってくる日々の思い付きについて思いを巡らした上で、あらためてこの世界では体験するだけで十分であることをしっかり思い出さなければなりません。

満たされることのない渇望は必然

先にも述べました通り、私たちにとっては体験することがすべてなので、ある意味その結果はどうでもよいことです。

であるならば、結果という執着を持たない、手放すということがとても重要なのだろうということです。

そしてここでいまひとつ重要なことがあります、それは何も行動を起こしていない段階で、あれやこれや未来について色々考える必要はないということです。

だってそうですよね、体験したいだけなのに、何故その前段階で無用な準備が必要なのでしょう?

事前に無用な思考を巡らすということは、むしろ自分にとって本来の好ましい体験から遠いルートを進むことに繋がってしまうリスクが発生します。

本来は体験こそが重要なのに、あらかじめ自分で設定した未来を引き寄せ、本当に体験したかったであろう別の体験に置き換えてしまうのです。

私たちは本来、思いついたらただその思い付きを素直に行動に移すだけで良いのです。

それなのに多くの人々は、自らが勝手に未来予想図や未来予測的な見解をあらかじめ用意したがります。頭がこんがらがるかもしれませんが、心を落ち着けて思いを巡らせればこの点の自己矛盾に気付けるはずです。

では何故こんなにも私たちはそんなに結果に執着してしまうのでしょう?

それはとても簡単なことで、私たちが結果にこだわるのは、満たされていない自分への渇望です。
すでに自分は十分に満たされているにもかかわらずついついそのことを忘れて、もっともっと欲しい欲しいと繰り返してしまう渇いた願望です。

何故私たちはこんなにも砂漠のような渇望のループの中を彷徨うのでしょうか?

それはその体験も無駄ではないからです。
その不毛な体験の果てに私たちは思い出すのです、自分はすでに満たされた存在であったのだと。

一見すると無駄のような渇望による体験すらも私たちにとっては大切な体験となりえるのです。それだけこの世界は柔軟で私たちの思いもよらないほどに豊かな世界なのです。

でももうそろそろ私たちは完全に思い出しても良い頃です。

今こそ無理に砂の砂漠へと爪痕を残そうとする生き方を手放す時ではないでしょうか?

タイトルイラスト

灯さかすさんよりお借りしています。
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