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Vol.512「桂春団治は歌よりメチャクチャだった」

(2024.9.3)

【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…もともと「歌謡曲を通して日本を語る」は、あらゆる時代、あらゆるジャンルの日本の歌から歴史や文化を語ろうという企画で、これまで中村メイコの『田舎のバス』や、美空ひばりの『越後獅子の唄』なども取り上げてきた。だがそういう歌が扱えないと、語る内容も制限されてしまう。これまで歌った演歌では、5月の「コンプラ違反曲がなぜ悪い?」での『浪花恋しぐれ』(都はるみ・岡千秋 1983)も、とても評判がよかった。しかしこの歌は、深堀りするとさらに面白い話が出てくる。これは伝説の落語家・初代桂春団治をモチーフにした歌で、今では「春団治」といえば『浪花恋しぐれ』というイメージにもなっている。ところが、実はこの歌と実際の春団治は全然違うのだ。演歌を語る意義を強調するためにも、今回はそれについて書くことにしよう。
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…2023年秋、米フロリダ州のディズニーリゾート内のレストランで食事をした米国人女性が、アレルギー反応を起こして死亡する事件があった。死亡した女性の夫は、ディズニーとレストラン側に過失があったとして、5万ドル(日本円で約740万円)の損害賠償を求めて訴訟を起こしているのだが――。「あり得ない!」としか言いようのないディズニー死亡訴訟だが、もともとアメリカは、日本人から見れば「あり得ないトンデモ訴訟」には枚挙にいとまがない国である。米国の訴訟事例集から抜粋してみよう。
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」…男系固執議員も票になるなら女系・女性天皇容認の主張をするようになる?議員だけではなくデヴィ夫人などSNS上で影響力のある人にもロビー活動するべきでは?台風10号の騒ぎをどう見ていた?今年も何かと炎上している日テレ『24時間テレビ 愛は地球を救うのか?』についてどう思う?兵庫県知事があれだけの悪行を重ねておいて、それでも辞職しないのは何故?反戦ロマンチックの映画やドラマは本当に需要があるの?「漫画」と出会ったばかりの頃に読んでいたのはどんなジャンルの作品?コロナ感染対策を笑いにした「水曜日のダウンタウン」にコロナ脳たちが騒いでいるのをどう思う?…等々、よしりんの回答や如何に!?



1. ゴーマニズム宣言・第541回「桂春団治は歌よりメチャクチャだった」

 10月5日、福岡でよしりんバンドLIVE「歌謡曲を通して故郷・福岡を語る」を開催する。
 7月のイベント「愛子さましか勝たん!」での成功を受け、今度はこれまでで最多の曲を披露する予定で、リハーサルも入念に重ねている最中である。
 
 ただ、よしりんバンドが絶好調なのはいいのだが、ひとつだけ問題がある。
 バンドLIVEが中心となると、どうしても選曲がロックやJ-POPばっかりになって、演歌が歌えなくなってしまうのだ。
 もともと「歌謡曲を通して日本を語る」は、あらゆる時代、あらゆるジャンルの日本の歌から歴史や文化を語ろうという企画で、これまで中村メイコの『田舎のバス』や、美空ひばりの『越後獅子の唄』なども取り上げてきた。だがそういう歌が扱えないと、語る内容も制限されてしまう。
 これまで歌った演歌では、5月の「コンプラ違反曲がなぜ悪い?」での『浪花恋しぐれ』(都はるみ・岡千秋 1983)も、とても評判がよかった。

 しかしこの歌は、深堀りするとさらに面白い話が出てくる。
 これは伝説の落語家・初代桂春団治をモチーフにした歌で、今では「春団治」といえば『浪花恋しぐれ』というイメージにもなっている。
 ところが、実はこの歌と実際の春団治は全然違うのだ。
 演歌を語る意義を強調するためにも、今回はそれについて書くことにしよう。
 
 初代桂春団治は本名を皮田藤吉といい、明治11年(1878)大阪の革細工職人の家に生まれた。18歳で落語の門をくぐり、その後、上方の爆笑王として一世を風靡。昭和9年(1934)、胃癌のため57歳で没している。
 その型破りな生き様は常に話題の的で、死後も様々に語り伝えられて「伝説」となった。
 戦後には『小説 桂春団治』が話題となり、これを原作として1950年代から60年代にかけて藤山寛美や森繁久彌らが主演の舞台や映画が制作され、初代春団治の伝説はかなりポピュラーなものとなっていた。
 ただ、その伝説には本人が生前に語ったホラ話や、取り巻きが話を面白くするために盛ったり、他の落語家のエピソードをくっつけたりした真偽不明の話が多い。『小説 桂春団治』もそれらの話がベースで、意図的に史実を変えた部分もあり、作者の長谷川幸延は、これを「フィクション」と明言している。
 そして史実としては、富士正晴著の評伝『桂春団治』が最も信憑性の高いものとされる。
 
 それで『浪花恋しぐれ』だが、実はこの歌に描かれた春団治は、誇張された伝説とも、評伝にある史実とも違う。
 これは1950~60年代に映画や舞台で一般におなじみになっていた春団治像とも全く異なる、この歌だけのオリジナルの春団治なのだ。
 歌の春団治は、まだ今は「中座(なかざ)の華」(寄席の花形という意味。「中座」は道頓堀にあった劇場の名)にもなっていない不遇の身だけれども、将来は「日本一の噺家」になると誓う男になっているが、実際の春団治は結婚した時には既に大阪で一、二を争う人気者だった。
 また、歌では妻の名が「お浜」だが、実は「お浜」は春団治が最初の結婚をする際に別れた女の名である。
 さらに、実際の春団治はとにかく女には甘えるタイプで、しかもあまり酒が飲めなかったので、妻に「酒や酒や!」と怒鳴るようなイメージでもない。
 
 そして何よりも、この当時には「日本一の落語家」という発想がない。当時の落語界は江戸(東京)と上方(大阪)にはっきり分かれていて、東西を超えた「日本一」になろうなんてことは、春団治を含め誰一人思わなかったのだ。
 当時はレコードとラジオという新しいメディアが登場してきたばかりで、 新し物好きだった春団治は同時代の落語家の中でもダントツに多いレコード音源を今日に残しており、所属していた吉本興業に禁じられていたのを無視して、ゲリラ的にラジオに出たという逸話もあるが、レコードとラジオを通じて全国的なヒット曲などが出てくるようになるのは、もっと後のことである。
 当時の落語家にとっては生の高座がほぼ全てであり、地方巡業も盛んだったが、春団治はクセのある大阪コテコテのしゃべりとアクの強いダミ声のためか、その人気は「東は名古屋まで、西は岡山まで」と言われ、東京にもほとんど行かず、行ってもウケはさっぱりだったようだ。
 
 実は、関西の芸人が東京に進出して全国的な人気者になるという現象が定着したのは80年代の「漫才ブーム」あたりからで、『浪花恋しぐれ』は、その曲が発表された1983年当時の時代を反映していたのである。
 そしておそらくこの歌は、大阪から東京に出て勝負を賭けようとする棋士・坂田三吉と妻の小春を歌った、村田英雄のヒット曲『王将』のイメージをそのまま当てはめたのではないかと思われる。
 では、実際の初代桂春団治とその妻はどういう関係だったかというと、これが歌とは比べ物にならないほど凄まじいのである。

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