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哲学カフェ雑記:人を理解するとはどういうことか? 思考とその後・分かり合えなければだめなのか?

こんばんは。立て続けに哲学カフェに参加したので、連投失礼いたします。

「哲学カフェ」難しそうだな、と思う方がおられるかもしれませんのでちょっと簡単に説明しますと「哲学カフェ」とは、哲学という学問について話す会ではなく、対話という方法を用いて集まった人で身近なことから選んだひとつのテーマについて考えていく会であり、人の話をきちんと聞く態度のある人には難しいものではありません。
そもそも哲学とは学問を指した言葉ではなく「知への愛」の意であり、思考し、対話することからはじまった人間の営みのことなので、集まって対話する会を哲学カフェと呼ぶことには誤謬はないかと思います。

さて、過日は「人を理解するとはどういうことか?」というテーマで対話する会に参加いたしました。

ちょっと具体性の欠けた問でしたが、
●「他人の理解できない行動に出会ったとき、どう感じますか?」
● 何を考えているのかわからない」というとき自分はどんな気持ちですか?
●「自分のことを理解してほしいという気持ちはありますか?はいorいいえ。それはなぜですか?
という宿題をいただき、考えて行きました。

この宿題に答えた方は全員ではなかったのですが、
「相手との距離感によって異なる」
「理解した」と思ったときには相手に対して興味がなくなるのではないか?
「理解してもらえないと寂しいと感じる。理解されるように努力する」
「理解している」と思うことは慢心につながるのではないか。
などというお話を聞くことができました。

私は、人のことを理解したと思うことが慢心につながる、という意見には共感でき、むしろ私を「理解している」と思っている人の私の虚像の押し付けなどが大変迷惑だと感じるので、そういう風に思ってくださる人もいるのだなあと安堵いたしました。
自分が頑張ったのに失敗した時に「あなたらしくないよ」とか「そんな人だと思わなかった」などと言われたことが経験がある方にはご理解(笑)いただけるかと思います。

理解という言葉については「合理的」に「解釈する」のか「理論的」に「わかる」のか真意が測りかねますが、「相手の態度をくみとること」という意もあるらしく、それも”態度”という抽象語について説明してありますので解釈の判断も難しい言葉だと思います。
水は汲み取れますが、態度はどのようにくみとるのでしょうね?

”問題の意味を理解する”とか”ある技術について理解を深める”など対象が限定されているのであれば可能なことかもしれませんが、先述の「心」同様に状況によって可変であり、常にアップデートが可能で定義することのできない対象を理解することは私には不可能だと考えています。

この言葉を受けて「相互理解ができないと人が繋がれない」と話される人もいました。

その人が相互理解ができない人と繋がれないのは、私との差異でもあるので気にしないことにしてスルーしました。

私たちは「好きなもの」や「面白いこと」の共有でも全然つながっていけますし、一緒に何かをやることでも共生していけると私は考えています。
でも、一緒にいたいなら気持ちよく過ごしたいよね、とは思いますので相手に対してなにかを決めつけたり押し付けたりしないようにしようと改めて考えた対話でした。

また、私的な時間は快適に過ごしたいので対立や強引な同調を好む人からは遠ざかりたいものです。

哲学カフェ自体は難しくはないのですが、「そもそもそれがどういことなのか?」を話し合っていくことの困難さを感じた哲学カフェでした。














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