約束? (オーストリアの場合)

約束?, 2021
紙にオイルパステルとマーカー
300mm x 300mm

「言葉を話す時、我々は何を理解しているのだろうか?」ということをふと考えだすとキリがない、というのはそもそも我々は「どの程度」言葉を信頼しているのだろうか?と言い換えられるかもしれない。今住んでいるオーストリアは、キリスト教の影響が強い国で、どこか言葉への信頼度が非常に高いように思われる。それはいわば、結婚する者同士が教会で「誓いの言葉を述べる」こととよく似ているように思う。そうだ、言葉への信頼とその理解は「誓い」から来ているのであって、それは人間が言葉へ従属することに他ならないのだと考えることもできる。だから嘘をつくことは「誓い」を破ることであり許されないし、最悪の場合は刑務所に行くことになる。鉄道が信用乗車方式になっていて、いちいち改札機がないのは、乗車する物が切符を買ったという「誓い」のもとで乗車することになっているので、いちいち全員検査することはないけれど、その誓いを破るものは罰せられる。人間は言葉を他者との誓いを繋ぎ止めるものとして使っている。というのが、僕のこのところの理解だった。

ところが、オーストリアに住んでいるとドイツ語も英語もに日本語もろくに話せないじゃないかと思うことがある。いや、欧州の人々が使うようには、僕は日本語を使えていないのではないかと思うことが多い。例えば僕が日本語を話す時に、果たして誓いを立てて話しているだろうか、いや僕は心のどこか底で「適当に話しても、なんとか相手が(勝手に解釈をして)理解してくれるだろう」と甘えているのではないか、いわば話し手が言葉への信頼を放棄しても、聞き手の解釈さえなんとかすればいいのだという思考がいつも働いているように感じてならない。それは欧州の人が話し手が「誓い」を述べるのとは全く違い、それゆえ「誓い」の原則がなく、嘘をついたとしても罰せられることもない。つまり、言葉が話し手と聞き手の間で空中分解し、誰が話したかは特段重要視されることなく「言葉」そのものがなんとなく漂う世界で、お互いに解釈を求め合うというのが僕の理解だった。

日本の多くの政治家や著名人が謝罪する場合、多くが「心配をかけてしまいすいませんでした」「不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」という。つまり、話題関心ごとは相手の解釈が最重要項目と上がっていることは注目に値すると思う。我々は、そろそろ2020年代自分が何を誓って、どのような行動を取ったのか、考えられるようになりたい。


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