書籍を作る活動についての雑記(前半)

僕は芸術家でパフォーマンスや映像作品を作る傍らで、2010年頃からどういうわけか書籍制作を行ってきたのだけど、いわゆる少部数・小規模のZINEや個展カタログを含めて一度まじめに整理してみたいと思っていた。いつもまた今後にしようと思って手をつけられてなかったけれど、時系列に説明し、そもそも芸術家が金儲けにもならない、極々限られた部数の本を出すのはどういうことかを明らかにしたいと思っていた。実際にはいくつかの書籍でいわゆる「特装版」というものも作っているけれども、その説明はまたの機会に譲る。これまでに出版した書籍・ジンなどは以下の9点。前半は2010年から15年までを紹介しながら考えることにする。

台無しの共同体(2010, self-publishing, Tokyo) *売切
公共性を再演する|作品の解説を23種類の言語に翻訳する 丹羽良徳の2004年から2012年の介入プロジェクト(2013, My Book Service, Tokyo)
過去に公開した日記を現在の注釈とする:天麩羅(2015, UMISHIBAURA, Tokyo)
歴史上歴史的に歴史的な共産主義の歴史 (2015, Art-phil, Tokyo)
資本主義が終わるまで(2017, Art-Phil, Tokyo)
歓迎絶望ピクニック政府 (2018, self-publishing, Vienna)
ウィーンで赤い者を追う (2019, PARCO, Tokyo)
先祖の社会復帰 (2020, self-publishing, Vienna)
2017年10月1日より:オーストリアには顔面被覆は禁止です(2020, das weisse haus/self-publishing, Vienna)

2016年からオーストリアに拠点を移しているので、それ以前に出版したものが4点。そもそも毎回、終わることがないように思われる編集作業を経て、もうこんな大変な作業二度とやりたくないと思うのは常だったが、なぜかまた書籍を作ろうということになる。前提として、芸術家が展覧会を通して作品を公表しその内容を世の中に問うというフォーマットを超えて世界(?)に作品を理解してもらう仕組みがあるはずだと思っていたと思う、いまやウェブが大きな役割を果たそうとしているし、新型コロナウイルス 感染症に蔓延によって実際展覧会が中止・延期されたことをうけてオンライン上映会やオンライン展覧会という試みが世界的に発展した。それは実空間での展覧会を3Dバーチャル体験へと変換を試みるものから、インターネット特有空間を新たな場として定義したものまで様々あるけれど、実態はいわゆる「展覧会で作品を発表する」というフォーマットが融解されて、さまざまな周縁の場で創作活動が続けたれた。いや、新型コロナウイルス以前にもオンライン上を特有の場として定義した展覧会はあった。2019年にコロンビアの首都ボゴタの芸術祭「45 Salón Nacional de Artistas」のコミッションプロジェクトでは、芸術祭公式ウェブサイト上を<メディア>として扱いアーティストらが一連の介入行為を行った、僕はYouTube上のアップロード(取り残された?)されたほとんど誰にも視聴されることのない私的な誕生日会を収集し、芸術祭ウェブサイトを訪問するたび、その日世界のどこかで行われているはずの見知らぬ誰か(?)の誕生日会を強制的に視聴するというプログラムを作った。ぼくはウィーンの自宅から自作を含んだその芸術祭が開催されていく様をインターネットを介して見ていた——僕はコロンビアには渡航していないし、芸術祭のスタッフの誰とも対面では会っていないけれど、こういうことが実現した。これは新型コロナウイルス蔓延以前の世界だけれども、こうやって少しづつだけども、作品を発表するフォーマットというのが融解していくのに慣れていくのだなと考えていた。

僕にとって、書籍は展覧会の外にある数少ない場の一つだった。特に「過去に公開した日記を現在の注釈とする:天麩羅」は作品を解説・説明・補完すためのものではなく、その書籍自体が作品だ。最近は書籍とウェブは近いはずだと考えるようになったのは、印刷された書籍とデジタル書籍の違いはほぼ無いに等しいと思えてきたからだ。紙に印刷された書籍の魅力は捨てがたいことは知っているけれど、それは書籍というフォーマットや構造を構成するひとつの要素に過ぎない。僕の制作活動において、展覧会の外にある書籍という場はインターネット上に移行することができる、むしろインターネットネイティブ上から展覧会もしくは制作そのものを飲み込むこともできるかもしれない。

台無しの共同体(2010, self-publishing, Tokyo) *売切
これはすでに売切れているが、30部限定ですべて手製本したドローイング300p超のアーティストブックだった。一切コンピューターは使わず粗悪なコピー用紙に粗悪なドローイングの印刷を重ねたもの。表紙は厚い合板。もはや手元にはエディション外の試作品が残るだけになっている。とにかくこれから書籍作りを始めることになった。

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公共性を再演する|作品の解説を23種類の言語に翻訳する 丹羽良徳の2004年から2012年の介入プロジェクト(2013, My Book Service, Tokyo)
おそらく書籍作りをまじめに考え出したのはこの頃だったと思う。書籍を作ろうと思った当初の計画では、作品集をいかに全世界に流通させることができるかということを考えていて、国境のないインターネットの世界も言語によって分断されているではないかという考えをもとに、ならば可能な限りの言語で作品コンセプトを掲載するのが効果的なのではないかという考えに至った。当初は36言語、およそ世界人口の8割を母国語でカバーできるによる記述を計画していたが、最終的に23種類の言語となった。そのなかには、世界語として設計されたエスペラント、そしてプログラム言語としての可能性を秘めた人工言語ロジバンまでの幅広い言語による記述を行った。掲載言語を増やせば、計算上は可読人口増えることになるが、サピア=ウォーフの仮説でいうところの「文章の理解とその世界観の形成には、使用する言語が関与している」に立てば、その世界観は言語ごとに引き裂かれていくという状況が生まれることに注目し、その構造自体をアーティストブックとしたもの。音声CDまでつけていて、テキストを日本語で読み上げている。イタリアの印刷し、デザインは田中義久君。

購入は、MyBookServiceのウェブから注文できるので、ここからどうぞ。
http://mybookservice.co.jp/reenactingpublicness/

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過去に公開した日記を現在の注釈とする:天麩羅(2015, UMISHIBAURA, Tokyo)
この本は、2008年から2014年までに散発的に書かれた500以上の私的な日記を再編集して書籍化を目指したもので、作品集の部類とは違いほぼ文体による創作である。インターネット上に残る過去の日記に、後日徹底的に膨大な『注釈』を付け加えることによって、その本文解釈を変容させて過去を捏造することは可能か?ということを考えて作られた。そもそも私的な日記なのだから、あとから読むと書いた本人でさえ、何を言っているのかわからなかったりするのだから、その解釈をめぐってはもはや論争どころではない、積極的に捏造することが可能だと考えたのは、歴史修正主義の問題がたびたび社会的に取り上げられた時期と重なる。編集は、後藤知佳さん、デザイナーは岡崎由佳さん。後日、書籍をアップデートするプラグイン的な副読本『任意の索引』と『正誤表』が追加された。出版レーベルUMISHIBAURAから出版。

購入は、UMISHIBAURAのウェブサイトから注文できるので、ここからどうぞ。http://umishibaura.jp/

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歴史上歴史的に歴史的な共産主義の歴史 (2015, Art-phil, Tokyo)
この本は上記の「過去に公開した日記を現在の注釈とする:天麩羅」と同時に発売されたもので、レコードの表裏に相当する。2010年から2014年頃まで長期間かけて行われた共産主義を巡る4部作というシリアスな作品群をまとめたモノグラフ。ルーマニアのブカレストで「ルーマニアで社会主義者を胴上げする」やロシアで「モスクワのアパートメントでウラジーミル・レーニンを捜す」という長期現地滞在プロジェクトの成果をまとめたもの。デザイナーは、かつて社会主義体制で現在の北マケドニア共和国出身のネダ・フィルフォヴァ。

購入は、amazonから注文できます。https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E3%81%AB%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-Historically-Historic-Historical-Communism/dp/4905037026

2017年以降の書籍は(後半)に続く。






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