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アインシュタインの教育観〜学校教育とは何かを考えてみる〜【Aflevering.233】

 以前の投稿で書かせていただきましたが、私が初めてアインシュタインの教育観について触れたのは、大学生の頃に英語で著名人の名言集について学んでいる時でした。彼は“教育は学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、 自分の中に残るもの”という言葉を遺したとされています。
 最初私はその意味を理解することができませんでしたが、公立高校で働き、学校教育に関わる仕事をする中で次第にその意味に気づくようになりました。
 彼の教育観についてもう少し詳しく調べたいと思い、寺田寅彦『科学知識』(1921)に収録されている「アインシュタインの教育観」を読みました。今回はそこで学んだこと、感じたことを記録しておこうと思います。

一般の人も楽しいと思える授業

 彼は天才と言われながら、”一般の人に向けて知識欲をかき立てるような講義講演”をしていたそうです。おそらく、難しい言葉を使うのではなく、一般の人にもわかりやすいように説明できる人物だったのかもしれません。彼の教育観について、私個人として共感する部分がたくさんあったので共有させていただきます。

ドリルよりも自分で考える機会を

 彼の考えとしては、言語の学習よりも科学(”若い人の自然現象に関する洞察の眼を開けることが最も重要だ”と言ったらしい)に重点を置くべきだと主張したそうです。
 彼の教育に対する考えについて細かい評価をするつもりはありませんが、私個人としては無機質な「紙面上だけの学び」というのは、やはりつまらないものだというところに同意します。実際に彼は、”精神的な筋肉”を得るように教育しなければならないと考えており、”語学の訓練(ドリル)”よりも自分で物事を考えるようになるための一般的な教育が必要だと言っています。

教育が「子どもの負担」になっていないか?

 年齢を重ねるにつれて、子どもたちそれぞれの個性的傾向が現れます。それに分派していくまでの小学校や中学校などの基礎的な教育は、"偏りのない骨の折れない程度に止める"ことが重要だとされています。つまり、それぞれの興味・関心が学びたいことにつながるまでは、子どもの負担になるような教育であってはいけないということです。
 ここでは、日本の生徒たちの数学嫌いがその典型だと述べています。”学校生活中に襲われた数学の悪夢に取り付かれてうなされる”という表現は痛烈です。
 アインシュタインは、数学嫌いの責任の多くは教師側の無能だと指摘しています。もちろん教師だけの責任ではないという考えもありますが、目の前の学びを「ただやらなければならないもの」として無機質に処理してしまっているところがあるのではないでしょうか。

学校教育の目的は「人づくり」

 アインシュタインは、学校においていまいちイメージがしにくいもの、例えば「政治」のようなものに取り組むべきではないという考えがあるようです。これに対してはいろんな意見があると思います。
 学校教育の中で、社会がどのようにして動いているのかを子どもたちに気づかせる必要はありますが、「政治」というのはあまりに抽象的なもので、実際に私が授業をする時も難しいと感じていたテーマです。
 しかし、大きなテーマとして「政治」や「税金」といったものがなぜあるのか、どのような機能を果たしているのかを考えるような、実生活に直結するような部分は大切だということをこの文を読んで感じました。

 ここで彼は、重要なのは『人』づくりであり、普通学校で未来の官吏、学者、教員、著述家を育てることが第一目的ではないと言っています。これは非常に本質的なところを突いています。何のために学ぶのか、私も含め「学校教育の目的とは何か?」。みんなが同じ答えである必要はありませんが、自分なりの考えを持って答えられる教員がどれぐらいいるのでしょう。

面白く教えるのが「教える力」だ

 アインシュタインの主張として、教師に足りない力は、学習を面白くする力だとしています。教師は、知識や教材をこなす力を持ってはいるけれど、アインシュタインは”教える力は面白く教える力”だとしています。確かに、生徒がまず「やってみよう」という思いを持てるか持てないかで、その次からの学びの効果は大きく異なります。

「詰め込み」への批判

 学校教育の中では、学びというのは一種の「やらなければならないもの」という色が強いです。もちろん、「啓蒙」とされるような、社会で生きていく上で必要な最低限の学びはありますが、それがどこまでも続いているような構造になっているのが問題なのです。「全員に必要な学び」と、「選択できる学び」がそれぞれ分けられていることが重要なのかもしれません。

 アインシュタインは、試験があることで強制的に定められた卒業試験のために”生徒も先生もあくせくしていなければならない”ため、最後の試験そのものが、遙か手前の学習にも暗い影を与えるとしています。学校教育という制度を保つ以上、完全に試験のない学校教育が成り立つのかどうかは考えてみる必要があると思いますが、試験を前提とした学習はもはや作業と化してしまい、学びそのものが無機質になってしまうということなんだと思います。
 また、その試験が終わってしまったらテストのために用意した知識は忘れてしまい、学んだことを再び繰り返すことはありません。これについて私は思わず頷いてしまいます。
 そして、彼はこう続けます。”試験さえすめば数ヶ月後には大丈夫綺麗に忘れてしまうような、また忘れてしまうような、また忘れて然るべきような事を、何年もかかって詰め込む必要はない”と。ここで重要なのは、学んだことは忘れてしまっても知識を詰め込む時の辛かった感情や記憶は残るということです。何となく勉強嫌いになったり、歴史や理科の面白さに触れることなく無機質に処理してしまったことは、大人になった時に同じ事をもう一度やろうとするだけで嫌な気持ちが蘇ってきます。
 これが原因となり、現在求められている生涯学習の障害の一つにもなっているのではないでしょうか。実際、日本では25歳以上で大学院に通う人は諸外国に比べて低いというデータを見たこともあります。

学校の成績で進学する

 これについては、入学試験ではなく学校での成績にすれば良いとしています。その成績というのも、おそらく択一的なテストや提出物で管理されたものから算出されたものではなく、生徒の学習そのものを評価すべきだとしているのではないでしょうか。また、”若いものは暇な時間でも強い興奮努力を経験している”と書かれているように、学校の時間以外の生活時間を与え、そこでどう過ごすのかを自ら考え選択することも必要だと私自身は感じます。

学習について

世界の歴史は「通例乾燥無味な表に詰め込んだだらしないもの」

 アインシュタインの考えとして、学校の時間を削るとしたら、世界の歴史が適しているそうです。おそらく年表のことを示しているのだと思いますが、歴史学習を”通例乾燥無味な表に詰め込んだだらしないもの”と表現しています。確かに、歴史を教えてきた立場としては、今の歴史の学び方そのものが歴史嫌いを生み出しているとも感じます。

 また、冒険者や流血者だけでなく、文化に貢献した人物について話してもらいたいと言っています。私も文化について学ぶことは重要だとこれまで感じていました。その理由として、歴史の流れはとても大きなもので、為政者がどうしたとか、国王の名前などが並ぶだけということが多いです。それに対して、文化というのは人々の生活に近いものがあるので、リアルに感じやすいところがあります。これについても、前提として知識を吸収すること自体を目的とした学習が、歴史においても無機質な学びにしていることを示しています。

算数や理科は具体性を忘れない

 当時の理科や算数について、あまりに””非実際的”だと指摘しています。時代は違いますが、何となく彼が主張していることが理解できます。
“子供の頭に考え浮かべ得られる事を授けないでその代わりに六(むつ)かしい「定義」などをあてがう。具体的から抽象的に移る道を明けてやらないで、いきなり純粋な抽象的概念の理解を強いる”と言っています。現行の新しい学習指導要領では、そういった学び方については変わりつつあるかもしれません。
 また、実際に見せることの重要性として、「実際に高い建物に登らなくてもその高さを知ることができる技術の高さ」などの素晴らしさを感じように、外で学習を始めるべきだとしています。そこには自動的に角度、相似、三角関数などを絡めて学ぶことができるとしています。実際のものとして学ぶというのは、聞いているだけで楽しそうです。このように、“出来る限りは知識が体験にならねばならない”という考えは重要です。

学問を心から愛する理学者

 アインシュタインの主張ではなく、この文章を書いた筆者が述べたことですが、中には面白く教える力の他に、その教師が自分の専門とする学問に熱狂的な愛情を注いでいる先生には多くの受講生がいる場合があるケースもあることを示しています。それは一時的なものかもしれないということが述べられていました。

 私も現場にいて感じていたことですが、それぞれの教員が自分の得意なところで子どもたちに関わることも学校教育の中では大切なのです。子どもたちにそれぞれの個性があるように、教員にも個性があります。その個性を活かした教育もまた、子どもたちの健全な成長に寄与するのではないでしょうか。

 以上が『アインシュタインの教育観』を読んで学んだこと、感じたことになります。これは、アインシュタインが直に書き残したものではありませんし、さらに翻訳されたものを私は読んでいます。ひょっとしたら彼が本当に伝えたかったこととは異なった理解をしているかもしれません。

 現代は、社会全体の構造も彼が生きていた時代から大きく変わり、当時にはなかった情報化やグローバリゼーションが進行しています。現代では、ジェンダーの捉え方など彼の言っている事を鵜呑みにできないところもあります。しかし、時代によって異なる部分は客観的に見るとして、時代が変わっても変化しない、彼が考えた「教育の本質」から今の私たちが学べることもたくさんありました。
 当時は写真や動画などの資料もない頃だったので、写真などをうまく活用することが効果的だとアインシュタインは述べています。参考資料になる写真などもなかった当時の授業というのは、余計に無味乾燥な授業が行われていたと考えることもできます。しかし、そもそも日常生活の中で触れられる情報量も当時では限られているので、授業そのものに価値があったのかもしれません。それに対して、画像などが手に入りやすい現代では、さらに今後実際的な授業をするために教師たちが知恵を絞らなくてはいけないのかもしれません。

 教育に携わる仕事をする者として、日頃子どもたちと過ごす中で目の前の学習だけに捉われず、どんな人間になって欲しいのか、そう言ったところまでを意識してこれからも子どもたちと関わっていきたいと思います。

【参考資料】
寺田寅彦「アインシュタインの教育観」(『科学知識』(1921)より)最終閲覧日2022.11.09

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