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【第28話】地図から消された毒ガス島、そして「移住一周年」を目前にして変わったこと

◇やっぱり「のんびり田舎暮らし」は都市伝説

 トーキョーから瀬戸内海の島に移住して、11カ月が経った。ここんところ取材&締め切り千本ノックで虫の息なんですが、皆さんはいかがお過ごしですか? SMAP騒動もう終わった? そっか、センテンススプリングならぬリアルスプリング。いよいよ春だもんなぁ。そういえば先週、ウグイスの初鳴き聞きましたよ。木々の芽も膨らんで、もう気の早いヤツはそわそわしている。いいなーいいなー、私も浮かれたい!

 ってことで行ってました「ウサギ島」。正式には、広島県竹原市の「大久野島(おくのじま)」というのだが、島中が野生のウサギだらけの珍スポットとして、最近Youtubeやテレビで注目を浴びだしたらしい。周囲約4kmの島内になんと700匹以上(推定)。マニアにとっては「死ぬまでに一度は訪れたい聖地」が、この大三島のお隣さんだったんですね。しかもフェリーでたったの10分。知ってはいたけど、ついつい後回しになって行けずじまいだったのだ。

 いつも感じることだが、同期(?)の移住者の中で、ウチは断トツに周辺の観光ができてない。私は仕事都合、夫はイノシシ都合(解体、ラーメン)、そして家のメンテや来客、部落の草刈でそれどころじゃなかったからだ。何度も言うけど、「のんびり田舎暮らし」なんて都市伝説だよ。よっぽど質素な生活を望む人か悠々自適のお金持ち以外は。

 と、まぁ泣き言はさておき、せっかくなんでウサギに触れてみましょう。

(餌を持って来なかったのでシカトされる) 

(こいつにはオシッコを飛ばされた。匂いは人間のそれに近い) 

 餌は、なんと島の中には売ってないんですよ。みんなどうしてんのかなと思ったら、家から持ってきてるみたい。ある人はペレット、ある人はキャベツを一玉持ってきて千切りながら与えている。「コストコで仕入れたんかい!?」っていうぐらいゴミ袋いっぱいの野菜背負っている家族、ありゃきっと農家さんだね。

 こんな風にウサギが優遇されているのは、理由があるんですぜ。ダンナ。


◇戦争は、ヒトをずるくて滑稽で哀しくする

 実はウサギ島には別の顔がある。第二次大戦中、秘密裏に毒ガス兵器を製造していた「毒ガス島」としての姿だ。どちらかと言えば、私はこちらの方に興味があった。

 作っていたのは、ガスに触れただけで皮膚がただれてしまうぐらい猛毒のイペリット(村上龍の小説によく出てくる怖いやつ)やルイサイト、青酸ガスなど。

 あまりにも非人道すぎて国際条約で禁止されていた……にも関わらず影でこっそり作っていたらしい。瀬戸内海に工場を置いたのは、①陸や海からは攻撃されづらいし、②内地からの資材・人材補給も容易。そして③島なら海で囲まれているから、機密を守るにはピッタリだったからだとか。

 バレたらヤバいから、当時の日本地図からは島の存在自体が消されていたんだけど、このカモフラージュがけっこう雑。大久野島を中心にして、海を示すはずの水深線や隣の大三島までもがゴッソリ抜き取られている。要するにそこだけ虚無の空白地帯。「ここに隠しごとがありますよ」って宣言してるみたいなもんなんだ。

(これは工場の一部。昭和一ケタ代の建物なのでそれなりに近代的) 

 そして、炭鉱のカナリアのように現場の汚染度を計るために利用されていたのがウサギだ。ちなみに現在島にいるのは、まったくの別モノということらしいが、人間がウサギにかしずくスタイルはあの頃への罪滅ぼしなんだろうか。

 罪…になってしまったことは他にもある。「毒ガス資料館」には、この鬼畜兵器を中国で使いまくる日本軍の写真があったりして、被害にあった人の新聞記事も貼ってあった。まだ不発弾あるみたい。教科書では習わなかったけど、日本人もベトナム戦争の地雷に負けないぐらいエゲツナイことしてたんですね。どこの国も都合の悪いことは後世に伝えないし「あっちの国のほうが野蛮だ」とか見下しますが、こりゃもう同じ穴のムジナでっせ。

 しかも、広島などから連れてこられた工員さんたちは、自分たちが作ってるのが毒ガスという事実をずっと知らなかったらしい。後々現場で事故が起きたり、作業していた人が体調を崩すことで理解したんだとか。原爆と一緒でさ、今でも苦しんでいる人がいるんだって。工場の落成式のときの写真が切なかったなぁ。「祝」と書いた手作りの旗に囲まれて工員さんたち、とっても嬉しそうでさ。そして気休めにしかならないようなペラペラの防護服……。

 ああ、歴史は繰り返すんですね。

 原発のこととダブらせて悲しんだり怒ったりするのは簡単だけど、うーん何だろう、今はもっと別の思考回路でこの人たちのことを考えたい。資料館の記録によれば、こんな状況でも食事や休憩時間ともなれば、やっぱり賑やかで陽気な雰囲気にもなったという。みんな毎日どんなことで笑って、どんなことで悔しい思いをしたんだろう。これは幾人もの方が書籍にまとめているので、じっくり読んでみることにしたい。


◇冬眠から目覚めて、変わることもあるのかもしれない

 「本が売れない売れない」というけれど、さっき挙げたような歴史の証人とも言える本を見ると、ライターの仕事ってやっぱり必要なんだと思う。未来に語りかけるタイムカプセル的な本とでも言うんだろうか。

 いま生きている人とのキャッチボールは当然あるべきなんだけど、後世の人にも何か残すことを意識するもの悪くないだろう。偉業を成し遂げるとかそんな大げさなことじゃなくて、なんていうか、防波堤のコンクリに釘で彫った落書き程度でいいんだけどさ。

 虫も動物も一気に静かになる田舎の冬は、ニンゲンの思考も冬眠するんじゃないかと思う。眠りから覚めつつある今、自分の頭の中も不純物が沈殿して、なんだかクリアになっていくような気がしているんだ。

 最近変化した点、3つ。これらはよく考えたら当たり前のことなんだけど、「心からそう思う」ようになったという意味での変化。

 まずは取材のスタンス。書かれた人のその後の生活まで考えるようになった。媒体に載れば、その人にとっては「うれしい変化」も「望まなかった変化」も起きる可能性がある。そのバランスをできるだけいい方に傾けたいなぁという感情が湧いてきた。(もちろん、いい変化を作ろうとしすぎると提灯記事<広告みたいなヨイショ記事>になってしまうので、あくまで取材の大前提をまっとうしたその先の微調整としての話である)

 手書きのお礼状も出すようになった。これは最相葉月さんというノンフィクションライターが書かれた『仕事の手帳』(日本経済新聞出版社)の影響をもろに受けている。

 以前は一期一会の感覚だったが、田舎のネットワークは広いようで狭く、取材相手とはその後も繋がりが継続していくからかもしれない。どこまでもうっすらと「身内」のような感覚が張り付いている。まぁ、田舎⇔都会に関係なく、野球業界とか医療業界とか専門のフィールドを持っているライターさんは、もともとこのような意識でやってらっしゃるのかもしれないが。

 お次は、扱う言葉……かな。ライトな口調でも、30年後もすんなり読める文章もあれば、死語っぽいノリで恥ずかしくなる文章もある。自分の中での長期使用に耐える言葉。探していきたい。

 最後、これはデカいかも。世の中を見たときの”色彩が増えた”ってことなんだ。平たく言えば、今さらながら「世の中を知りつつある」ということ。3色モニタがいきなり4Kになった感じ。東京と埼玉の都市部しか知らなかった人間が、移住をきっかけに色々な地方に取材に行かせてもらえるようになった。その多彩さや懐の広さに毎回言葉を失って、処理する脳が追い付かない。

 今年に入ってからも、徳島、淡路島、尾道の奥にある御調町、弓削島、岡村島、など、取材でたくさんの新しい土地に行かせてもらった。その土を踏んで空気に触れヒトに会えるのは、ライターという仕事をして本当によかったことだと思う。実はね、便宜上ライターと名乗ってますが、自分としては「I am ライター」っていう意識があまりないんですよ。職業違ってもあるんじゃないかなぁ、そういうの。学校の先生だけど「センセイの自覚もてないんすよ」とか、そんな感じかもしれない。自分の場合は基本的に節操のない雑食で、没頭したい取材テーマがないからかもしれん。でも、この脳みそシェイクフィーバーを経て何か見つかるような、そんな予感がしてるんだ。予感は予感でしかないけれど。

 ある人曰く、私はどうしようもなく不器用なニンゲンなんだそうな。自分では結構したたかに生きているつもりなのだが、確かに、他人よりだいぶ遅れて社会的イキモノになってる感はある。若気の至りで二十歳のときは成人式出なかったけど、40歳になったら自主的に成人式しようかなぁ。

 あと4年ある。

 そのときまでに、どこかにたどり着いていたい。物を書く人として。

                             (続く)

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