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【第22話】移住のリズム、35年間見てきたものは日本のほんの一部に過ぎなかった(①出張編)

◇生活のサイクルが定まってきた

 3月30日に都会から身を移して、早222日。ニャンニャンニャンで猫記念日……? なんて言っている場合ではなく、とにかく今日は書けるだけ書かねばならぬ。現時点においての移住生活サイクルが固まってきたので、なんかその空気感みたいなものを焼き付けておきたいのだ。どうせならせっかくゾロ目の今日この日に。

 そう思うと、このブログって記念写真みたいなものかもしれない。誕生、百日祝いに、七五三、卒業式に成人式――。さぁ、今はどの辺だろう。首は座っただろうか、つかまり立ちぐらいはできているのか。うーん、わからニャイ。


◇東京のフリーランスが地方に行って

 自分の現時点での生活サイクルは、順不同ではあるが「出張」→「イベント(地域の祭り)」→「引きこもり(たまった仕事や家のことを片付ける)」の繰り返しになってきている。

 改めて自分の生業を記しておくと、ライター兼イラストレーター兼カメラマンってことになる。主戦場は東京で、雑誌やwebニュース、広告媒体や企業がお客さんだった。マルチといえば聞こえがいいが、個人的には「移り気なハンパ者」という気がして自己紹介の際には毎度目が泳いでしまう。今もそうだけど。

 ところが、移住生活ではこれがプラスに働いた。

 地方には、東京の企業と信頼関係を結んでいるフリーランスが案外少ないようなのだ。全国規模の雑誌編集部でさえ「そういえば中四国地方には誰もいなかったね」と言われたこともある。しかも一人で執筆も写真も(時に挿絵も)イケるってことで、ありがたいことにありがたがってもらえる。出版不況のせいで、本社の社員が経費使って現地まで取材に行くのが難しくなった、というのが最大の要因かもしれない。

 最近ではある程度ならデザインやWeb制作もできるようになり、弱小ではあるが「一人編プロ」状態。移住先の会社や個人事業主の方からも、声をかけていただくようになった。というワケで、自ずと泊りがけの出張も増えた次第だが……。


◇広島式ツッコミ美術鑑賞

 今さら思う。日本って広いんですね!

 広島に行ったときが一番ショック受けたなぁ。ふだんは城とか景勝地とか、メジャーな観光スポットには食指が動かないんだけど、あの日勇んで訪れたのは広島県立美術館だった。自分が尊敬しているイラストレーターの一人に、開国の騒乱が生んだ爆笑アニマル絵師・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)がいるのだが、さらにその師匠である浮世絵師、歌川国芳(くによし)の展示最終日だったのである。(皆さんも美術の教科書で見たことあるはず、裸のちょんまげたちがお尻を寄せ合って、騙し絵みたいに一つの顔を作っている絵と言えば思い出していただけるだろうか)

 しかし、その名画の記憶とセットになってしまうぐらいに私の関心をひいたのは、「観賞している広島県民の言動」であった。首都圏では「美術館では静粛に!」が合言葉だったはずなのだが……。ザワザワ、ボソボソ。ここでは始終おしゃべりの声が響いている。それも作品に対するツッコミなんだ。

 マダム二人連れが、大蜘蛛と戦う侍を前にして「わっ、この蜘蛛、人間食べとるし! お侍さんは大丈夫なん?」とか。20代中ごろのカップルが、大海原に舞う天狗の絵を見ながら「うふふ。なんかこの天狗、天使っぽくない?」「この時代にはな、まだ天使がおらへんかったから天狗がその代わりだったんじゃ」とかさ。他にも、「この部分は手抜きやね」「この題名、絶対ダジャレやろ」なんて人が後を絶たない。

 あたしゃ見たね。作者である国芳っつあんが天国でうれしそうに笑ってんのを。だって、浮世絵って雑誌の挿絵とかポスターでしょ? 厳かに鑑賞されるより、彼らが生きていた時代よろしく「面白れぇなぁ!」って素直に楽しんでもらえたほうが絵師冥利に尽きるってもんだろう。

 そういう、視点を変に上げ下げしない広島の人たちの観賞スタイルをとても好ましく思ったんだ。ちなみに、原爆の様子を伝える平和記念資料館に行ったときも、地元の小学生たちは、中身まで真っ黒に焼け焦げたお弁当派箱を見て「これが自分なら泣いてまうわ」と、あたかもクラスメイトに同情するかのように額を寄せ合っていたのである。なんか体温あるよなぁ。

 県民性や土地柄の存在について漠然とは理解していたつもりだったけど、美術鑑賞一つとってもこんなに色合いが違うなんて知らなかった。広島に限らず、きっと大分だったら大分の、札幌だったら札幌の匂いと温度があるのだろう。今まで自分がスタンダードだと思っていたものは、きっと全然スタンダードじゃなかったんですね。


◇ハリーポッターとか村上春樹って最大公約数なのか

 「モノを書くこと」についても考える。これまで当然だと思って省略してきたことの中にこそ、本当に大事なものって隠れているのかもしれない。例えば「団地」という単語ひとつとっても、それだけであの湿ったコンクリートや、閉鎖的ながらも温かい感じを思い起こせる人は、人口の数パーセントしかいないわけで……。短い一言でいったいどこを切り取ったら伝わるのか、これからはもっと吟味せねば。

 当たり前すぎることが、ガツンと頭を殴ってくる。

 そう思うと、日本……いや世界中には、こんなにグラデーション豊かな「受け手」が存在しているというのに、世界規模で受け入れられちゃう作品って心底すごいですよね。最大公約数が持つ懐の深さ半端ねぇというか。一例を挙げるなら、うーん、スターウオーズとかハリーポッターとか、村上春樹? まぁ本当はもっと渋い例えを挙げられたら、場も締まるんでしょうけど、この辺の浅さがまだ自分の自分たる所以なんでしょうね。

 高知、徳島、島根、鳥取、広島。この数カ月で、新しい土地にたくさん行かせてもらった。

 そのほとんどが一人旅だったので、都度味わう感動や違和感はひっそりと無言で反芻ことになる。怒涛のスケジュールの中で、大半は忘れ去ってしまうだろう。しかし、そこで残った核のようなものは色とりどりの「点」として心の紙の上に刻まれていき、その点と点は線となって、新たなる図形が描かれていく。

 今、自分の中のその図形が、すさまじく拡張して美しい模様を描いていってるのが強烈に分かるんですよ。どうなっちゃうんでしょーこれから。楽しみ半分、ドキドキ半分。

                              (続く)

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