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教師としての限界

教育の仕事に携わって十六年になろうとしている。短くはないけれども、大ベテランというほどでもない。密度は濃かったと思う。多分それは、いろんな仕事に携われる環境があったことと、自分自身が新しいことに貪欲だったことが大きい。そんな自分は今、教育をどう考えているのか。

まず、教育は保守的である一方で、息の長いものだということ。十年やそこらで変わらない子どもの姿がある。日々刻々と社会の姿も、子どもの姿も変わっていく。価値観も変わっていく。それでも、そう簡単には変わらない子どもの姿や、子どもを取り巻く問題がある。新しく革新的な技術や教育法が解決できるものは意外に少なく、多くの問題が依然としてそこに積み重なり、同時に教育の持つ魅力もまたそこには輝いている。

教師の在り方、尊厳について話題にされるのは、比較的新しいことである。かつては尊敬すべき存在として扱われていた教師が、一気に親しみやすい存在になり、それが弱い立場として描かれるようになった。実態はもちろん様々で、現場ではそれらのイメージはあまり関係ないような気もしている。

結局自分は教師としてふるまうのに慣れてしまって、それ以外のふるまい方がどうもわかっていない部分がある。教師然としてしまうし、それがとても楽ではある。

よく教師は教師のことしかわからないと言われて侮蔑されることが多い。もちろん、それに対しては、あなたもあなたの仕事のことしかわかりませんよね、と言いたくもなるし、教師は社会のことがわからないという都市伝説を妄信した差別発言を容認するのも嫌なのだが、一方で、わからなくもないところがある。それは、教師の持つ態度や姿勢が、鼻につくというものである。

このあたりはわからないこともない。話し方が上手いとか、人馴れしているとか、そういった表現をされることもあるけれど、どこか助言的な態度に嫌悪を持つ人や、知識をひけらかされているように感じる人もいるのだと思う。これは、同業者であってもたまに感じることがある。もちろん、それは専門性であり、仕事であるのだから、ある程度は仕方のないことではある。また、そういったコミュニケーションをしたいときには、ぴったりの相手でもある。ただ、それに嫌悪感を持つ人やタイミングもあることも事実だ。

ただ、実際には、そういった姿勢や態度はある程度コントロールはできるものだし、プライベートではかえってそういう態度を封印することもある。そもそもそういう姿勢や態度の人が、適材適所として教師になった場合もあるが、そもそもそういう姿勢や態度を好まない人も多いのだ。

僕はどちらとも言い難くて、そもそも教師的な側面もあるけれども、教師的な態度の中には嫌悪を感じる部分もある。それは、誰にだって言えることだ。教職に限った話ではない。教職以外の人だって、教師的な態度は多かれ少なかれ持つものだ。そういった態度を嫌う人達にとっては、教師というラベリングだけでも警戒してしまうのはわかるし、そのために教師という肩書きの人に差別的な言動をしてしまうのもわからなくはない。良くないことだぞ、とは思うけれど。

僕は教師になりたいのだろうか。教師でありたいのだろうか。教師という態度は楽ではある。職業としてのアイデンティティーが確立してきているし、楽ではある。慣れ親しんだ役である。自然と演じることができている。そして、そのことによって専門職としての専門性を発揮することができていると思う。

一方で、これからもそうありたいかというと、ちょっと違うと思う。教師らしさは、必ずしも自分らしさではない。自分らしさのほんの一部でしかない。もっと乱暴で、雑多で、不調和な自分がいる。もっと独善的で、気分屋で、気ままな自分がいる。もっと誠実で、まじめで、孤独に向き合いたい自分がいる。だから、教職にある自分にフラストレーションがたまっていたし、今もまだ、新しい仕事、新しい自分の在り方を探している。

いっそのこと、教師である自分を全て手放してしまおうかと思ったけれど、それはもともと自分が持っていた部分だと思ったから、手放さないでいる。それは、音楽や芸術についても同じ。手放そうとしても手放せないものは、手放すべきではないものなんだと思う。少なくとも、今は。

そうなると、僕はいかに教師である自分を活かしていけるだろうか。それが教師や講師という肩書きなのかは別として、自分の教師性をどこに活かしていけるだろうか。学校や塾というのは、僕の教師性を活かす場としてはベタではあるけれども、結局は窮屈さを感じてしまっている部分がある。自分の未知なる領域の開放には至っていない。持っているもので事足りてしまう状況は、僕にとっては不安要素でしかない。

持てる力によって社会に貢献できることは良いことだけれども、僕が貢献すべきものは他にあって、そのために学ばなければならないことや、経験しなくてはならないものが、まだまだ控えている気がする。それを経なければたどりつけない過程があるはずだ。それを見つけられていないような気がして、焦っているのかもしれない。

結局はこれまで培ってきたものを再利用しているだけのような気がしているんだと思う。もちろん、日々少しずつ新しい体験をしているのだけれども、その歩みが遅いような気がして不安に思う。それは単に刺激を求めているだけなのだろうか。それは未来への過剰な期待なのだろうか。

教育者としての自分の蓄積の一方で、その頭打ちな状況にいらだっているのかもしれない。それは、教育業界の頭打ち感ともリンクしている。新しい技術や新しい教育法、新しいキーワードが出てきても、それらは二番煎じであり、なんなら社会の潮流の出がらしのようなものである。社会の中ではとっくに議論されつくしたものを、教育の文脈で十年以上経ってから再度取り上げているにすぎない。噛みつくしたガムをもう一度噛んだところで、味はしないだろう。そしてそれらの多くは刹那的で、その寿命は十年に満たない。そもそも出オチ感が強いものも多い。だから、教育業界の最新動向は、社会で実証実験された上で、まあまあ上手くいかなかったものの再検討になることも多く、提案された段階でまあまあ先が見えてしまうものが多い。そんな風景を見ている中で、社会にも、その再検討である教育にも、いささか希望を見失っているのかもしれない。

教育業界の限界を感じながら、それが教師としての限界だとも感じている。百歩譲ってそれを受け入れたとしても、それが自分の限界にはしたくない。それが今、僕が教師として感じていることである。

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