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孤軍奮闘水を得た魚

手をけがしたことをきっかけに、しばらく文章を書けなかったことが、けっこうストレスになっていたことに気づく。年末になって仕事をセーブし、少しずつ新しい仕事に向けてシフトしていこうとしたことと、いろいろな偶然が重なって、職場の人とコミュニケーションを取る機会が、ほんのちょっと、十パーセントくらい減った。それだけでも、意外とストレスになっていたみたいだ。そもそも手が不自由だったこともかなりのストレスだった。けがをした翌日には少し治ったような気がしたし、翌々日にはもっと治ったような気がした。ところが、三日後になると、なんか痛かった。おかしい。不可逆的なものではないのか、痛みというのは。二週間くらいになると、なんか普通にしてても痛いときがあるし、治すための整体も痛いので、行かなくなってしまった。そして、これは1カ月以上かかると腹をくくったことで、なんとかここまで耐え忍ぶことができた。ただでさえ削れているところなので、日常のちょっとしたことで傷口に塩を塗られたように痛みが走る。全てが嫌になって、心のもやもやが充満した。

転職、というか就職活動には心をえぐられた。どうにも、話が合わない。勤務条件や面接での話などで、どうにも、違和感がぬぐえない。それは当然予期できたものだろうけれど。どうにも、労働者を大事にしてくれていないのが伝わってきてしまう。報道や記事で語られるような雇用の現実がそこにはあった。ほお、これが噂の、というくらいに聞いたことのある話に、ついつい絶望してしまった。これは単に、採用不採用の問題ではない。既に働いているところや、採用が決まったところも含めての違和感だ。いつまでこんなこと続けていくのだろうと、げんなりしてしまう。雇用者と労働者は対等であるはずである。少なくとも、そうあろうとすることが、企業の生産性を高めるはずだ。けれども、未だに労働者は弱く、ばかにされているのだろう。重たい。せっかく羽ばたこうとしても、結局は同じ檻の中にいては、状況は変わらないのだろうか。そんなものだと割り切って、その環境に適応していける人もいる。僕だってそうなりかけた。でも、それではいけないという違和感は大切にしたかった。それではだめなんだ。そうして飛び出した場所は、まだ檻の中だったのだ。もしも、もしもコロナの影響がなかったら、と考えてしまうこともあるけれど、結局は同じだったのかもしれない。見えやすくなっただけで、多分そこにはずっと、檻はあったんだ。

どうにも今年を振り返ることができない。今年を振り返ることができるのは、今年が過去のことになっている人達だ。今もまだ渦の中にあってもがく人達にとって、今年を振り返ることなどできない。年末は、その格差をいやおうなしに感じてしまって、ここ数日の閉塞感に影響している気もする。ここ数日はどうにも気分が晴れない。うつうつとしている。どこか心のもやがじっとりと、ねばねばと、胸のうちをべたつかせている。年末年始は、一方では家族や友人とイベントや食事や買い物を楽しむ時期だ。でも一方では、多くの人が生きることに苦しみ、明日の暮らしを心配し、絶望感を感じる時期でもある。僕はどうにも後者に引っ張られてしまうのだ。華やかな街並みと着飾る人々、楽しく騒ぐ姿の反対側で、絶望を感じている人達を意識してしまう。そんな人は僕だけではないと思う。そんな、不器用な人種が、けっこういるのだ。

そういえば、年末年始の体調は、ほとんど良くない。大人になってからは、だいたい不調が続く。それまでのワーカホリックだったり、生真面目すぎる日々から一転して、急激に自閉モードに入るからか、身体が急に動かなくなる。一方で、年末年始は家族と過ごすという一般論と青年期までの慣習があるからか、逆に家族と過ごさないことのうしろめたさが襲ってきている気もする。この体調がわるい時期に家族と過ごしたくはない。だけど、過ごせないことが申し訳なくなる。そんなことが負の循環となって、不調に不調を重ねるのかもしれない。

年末年始には、負の空気が漂っている。神聖な行事が全国で行なわれる割には、どうにもこの世の居心地がわるくなる。それは、年末年始だからなのか。それとも、その神聖な行事がそうさせるのか。こんなときはやっぱり、身体を温めるにしくはなし。温かい食事、温かい飲み物、温かいお湯。厚着をして、ぬっくぬくな中で眠る。

ここ数日の食欲はハンパない。食っちゃ寝の毎日で、どうしたのかと思う。全く動いていないのに、身体が食べ物を欲している。思っている以上に何かを消費しているのだろうか。一部界隈ではふくよかな顔と体型が好まれるが、僕はそれに断固反対である。どう考えても健康的ではない。一部界隈にある、痩せよう、痩せようとする動きと同じではないか。過ぎたるは及ばざるがごとし。ただ、僕の場合は容易に栄養失調と水分不足に陥るので、多分、食事に積極的なのは必要なことなのかもしれない。

ここ数年の話題作を立て続けに観た。「劇場版 呪術廻戦0」(2021)、「シン・ウルトラマン」(2022)、「大怪獣のあとしまつ」(2022)、「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)、「天気の子」(2019)。どうにも気分がすぐれないので、SNSでしのぐ他は、映画を観て過ごした。ドラマも観たいけれども、とにかく長すぎる。映画であれば、少しずつ観ても九十分から、長くても三時間だ。改めて思うのが、世間のレビューや評価の虚しさだ。何なのだろう、あの得体の知れない、実態のないものは。何の根拠もなく、もちろん妥当性もなく、無から生まれたような存在。少なくとも本編を観たこともないような連中が発信しているとしか思えない。Amazonのレビューと同じかそれ以上に空虚な情報だ。最近になって改めて思う三大空虚の二つだ。もう一つはTwitterのトレンド。これらの共通点は、一つに大きな力が働いているということ。また、その力が完全に機能しているわけでもないということ。そして、そこに群がる二次的な空虚がこびりついているということ。おぞましい。そんなものを摂取して語る言論の空虚なことは言うまでもない。依然としてその中にあって言葉を発することのおぞましさよ。

批評というのは、誰にでも開かれたからといって、誰にでもできるものではない。ブログやツイートによって、誰もがある種の評価を語ることができる。点数やポイントの評価の虚しさは言うまでもないが、言論の虚しさもまた著しい。せめてまずは、対象そのものを「みる」ことが必須となる。しかし、そのことの難しさよ。我々は対象そのものをみているようで、全く別のものをみてしまっていることが多い。おにぎり一つでも、コンビニで買ったものだとか、誰彼が作ったものだとか、そのバイアスでモノを判断してしまう。食べる前から評価が決まってしまっている。ましてや、そのものを「みる」ことさえ積極的に排除した状態で語られる言葉のなんと多いことか。彼らは二次情報、三次情報、もしくは荒唐無稽な無から生まれた情報をもとに言葉を重ねようとする。対象そのものを「みる」ことを全く放棄したところから、言葉が生まれ、その虚無からまた、新たな虚無を重ねようとしている。その虚しさとおぞましさに吐き気がする。その渦中にあることを恐ろしいと思う。幸いにして僕は表現者であり、一次情報を発信できる立場にある。自ずからその媒体と表現方法は多岐にわたるが、それは一次情報を流通させるための手段となっている。人はカテゴライズされてしまった瞬間に、そのものを「みる」ことを諦めてしまう。一つの肩書きや評価を与えた瞬間に、その多様な実態を捉えなくなってしまう。百曲の中に光る一曲があったとしても、その一曲は気づかれないままだ。僕のように、自分の多面性を常に発信し続けている人は、まだましだ。いくらそれがディフォルメされているものであっても、多面性を表に出していれば、カテゴライズは難しいから、変に分かった気にはさせないことができる。しかしながら、多くの人は限られたSNSの中で自分を表現し、その偏ったイメージだけでみられ、カテゴライズされている。それはリアルなコミュニケーションにおいても適用され、自分自身さえも自分を定義してしまう。これは、恐ろしいことだ。そういった評価や批評から離れることは難しい。一つには、全くそういったコミュニティーから離れること。しかし、それは現実的ではない。そうであれば、積極的に自分を開示していくしかない。自分の領域を広げ、多面的に表出されて、何が何だかわからないという人間性に回帰していくこと。そうして防御していかなければ、人はレッテルや評価に飲み込まれてしまう。人はもはやカテゴライズからは逃れにくくなっている。そんな中でもカテゴライズから離れている先人は多くいる。彼らの姿勢に見習うべきだ。

不安定への恐怖は、死への恐怖に近しい。明日も食べていけるだろうか。生活していけるだろうかという恐怖は、いつ死ぬともしれぬ現世への思いに重なる。人は死を恐れなければ、明日を恐れない。死を恐れるから、明日が恐い。僕は死ぬことが恐い。何事もなさず、何者にもなれず、自分の痕跡が消えていくことを恐れる。その理由はわからない。単なる功名心や好奇心によるものだけではないようだ。

一方で、安定への恐怖もまた、ある意味での死を暗示する。これは状態としての死だ。目的地としての死ではない。安定することによる死は、変化のない中で自我がおぼろげになることへの恐怖である。繰り返される日々は、あたかも夏休みの一日が繰り返されることの恐怖のようである。それはどこか不自然な営みなのだ。だから、安定もまた恐怖なのである。

閑話休題。このざわつきの本丸はどこなのか。結局は体調だという気もしている。もちろん、小さな傷つきの積み重ねということもあるかもしれないけれど、その個々の事由だけの症状ではない気がするからだ。奇妙に孤独を感じる一方で、疲労感にさいなまれるというのは、これは器質性、もしくは心因性の不調ととらえる方が自然な気がする。そんなときは、ひたすら休むしかないのだが、それができずに辛くなっているのかもしれない。確かに、仕事は抑えめにしているけれど、それが逆に自分と向き合う時間を増やしてしまっているのかもしれない。自分と向き合う時間は癒しではない。ひたすらに辛い修行である。それでも、修行ではあるのだから、次の段階に進むには効果的なような気もする。俗世間に惑わされず、心を研ぎ澄ますことができる。

そういえば、映画を観ている時というのも、心が研ぎ澄まされている部分がある。一方で、自分の心からは離れることができるので、とても心を楽な状態にしてくれる。だから、少し体調が回復してきたら、映画に走るのかもしれない。

ようやく今年を語れるメンタリティーになってきたので、少し語る。今年もまた挑戦に挑戦を重ねた。挑戦に挑戦を重ねたというと大げさだけれども、そもそも一つの挑戦に対するハードルは低い人間なので、一般比ということであって、自分としては何にもできなかったに等しいかもしれない。新しい仕事、新しい表現、新しい学びに親しんだ。それでも、それらは結局はサブであり、メインではないのだと思う。自分のメインの一つは多分教育だし、そのあたりで仕事はしていた。けれども、それだけでは生活が難しく、一方で十分に自分の力を活かし、成長できたかというと、そうではない。ここ二年は、経済的にも能力的にも自分の貯金を頼りになんとかのらりくらりと生きてきたような気がする。これは、僕の精神状態としては、あまり健全な状態にない。自分の力を102%くらい。全力のちょっと上くらいを維持していたい。もちろん、十分な気力体力に余裕があって、休養も取れていての話しだ。本業としては70~80%の力を出しつつ、サブの活動も20~50%くらいの力でできることしかしていない印象だ。これは、健康第一、余裕を持った暮らしを最も第一に考えてきたからだ。とにかくそれが人生の前半でないがしろにしてきた反省だったので、そうしてきた。けれども、それはそれで満たされないものとか、また違った不安定さを持っていた。ワーカホリックな人間としては、休み方がまだまだわからず、消化不良のエネルギーの行き先にも迷っているのだ。自分が水を得た魚のように泳げる場所はないだろうか。そんなご縁を切に願う。

人はどんな人に出会えるかによって人生を左右される。だからこそ、僕は出会いを求め、いろんなところにちょっかいを出し続けている。一方で、自身の表現については独善性を保っている。この孤軍奮闘感に新たな展開があればいいと思っている。最近は特に古人の書籍に救われることも多い。できれば生きている人に救われることも、もっとあって良いと思うのだけれど、それもご縁だから。

新年の抱負を語るにはまだ自己分析が足りない。まずは、このうつうつとした年末年始を乗り切ろう。

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