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豊かな才能達に生かされている

今日も非常に頑張りました、自分。なんと午前中に起きて医者に行きましたよ、私。快挙。それからインドネパール料理屋さんでナンをいただきました。安定のおいしさ。お昼寝をして大久保へ。教科書が買えるという稀有な教材屋さんで教科書を一冊購入。もう少し買おうと思ってたけど、思ったより教科書高かった。中学校の教科書。九百円くらいした。高い。高すぎ。それから池袋の大学の図書館へ初潜入。さすが心理学の専門書が揃っていて、いざというときに使おうと思いました。でも、作業をするのには向かないかな。あわよくば入り浸ろうと思ったけれど、そんな場所には適さないみたい。それからジュンク堂池袋本店へも初潜入。さすがの品ぞろえ。丸善丸の内本店とも八重洲ブックセンター本店とも三省堂書店神保町本店とも紀伊国屋書店新宿本店とも違った品揃え。たまに行きたくなる本屋が増えました。池袋駅前はすっかりクリスマスのイルミネーションに染まって、クリスマスが待ち遠しくなりました。クリスマス、めっちゃ好きなんですよ。一番はクリスマスソング。クリスマスソングが店内で流れるだけで涙ぐむくらい好き。クリスマス時期のコンサートも好きだし、イルミネーションも好き。だからといってパーティーとかをしたいとかそいういうことはなく、ただただふんわりクリスマスの空気を味わいたい。当事者というより、ちょっと離れたところから見ていたい。そんな時期がもうすぐやってきますね。

夜は久しぶりに初台のfuzkue(フヅクエ)へ。久しぶりのお味噌汁の定食に癒されました。先日衝動買いした『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文(14歳の世渡り術)』(三宅香帆,2022)を読了。古文をキャッチーに紹介する本は多いけれど、あまり気に入ったものがなかった。けれど、この本はとても良かった。いい現代語訳、いいテーマ、いい文章でした。それから、店に置かれていた『プルーストを読む生活』(柿内正午,2021)をぱらぱらとめくる。おもしろい。こういうのを今求めている。いや、これまでも求めていた。意図的でなく、構成的でもなく、ただただ思うに任せて書いた文章。それは、意外と気をつけていないとできないものなのだ。まさに、今の僕が結果的にとっているスタンスとリンクする。帰り際、fuzkueでずっと気になっていた『読書の日記 本づくり スープとパン 重力の虹』(阿久津隆,2020)を購入。これもまた、日々の日記的エッセイ。これもまた、今の僕にリンクする。そしてこの本が気になっていたのはずいぶん前だから、どこかでこのような本、文章に惹かれていたのだろう。まあまあな金額なので、ためらいもしたのだけれど、自分を勇気づけるため、チューニングするために有効だと思い購入。今、期せずして何かを取り戻そうとしているのだと思う。たぶん、何かを忘れているのだ。何かの感覚を失っていたのだ。

久しぶりにナクソスで音楽を聴いている。日付けも変わり、最近は宵っ張り、というかずっとなのだけれど、夜にスペースを聴いたりポッドキャストを聴いたりしているうちに、夜が更けてしまっていた。そこで、何かを思い出すキャンペーンの一環として、ナクソスでドボルザークの交響曲第9番を聴いてみている。チェコフィル。ラファエル・クーベリック指揮。ライブ録音。クーベリックは存じ上げなかったけれど、チェコの指揮者とのこと。どこかで聞いたことがあるような気もする。ドボルザークの9番をちゃんと聞いたのは、たぶん高校の音楽の授業。なんとオーケストラスコアを見ながら鑑賞するという贅沢な時間だった。当時の僕は、吹奏楽のスコアには慣れ親しんでいたけれども、オーケストラのスコアは多分初めてに近い出会いだったと思う。吹奏楽に比べると楽譜がシンプルで、それなのにとても多様な響きが出されるのがすごかった。スコアを見ながら聴いていると、本当に作曲家になんてなれないと思った。過去の偉人たちの働きが素晴らしすぎる。奇跡に近いような作品に、長い時をかけて洗練された解釈が加わり、熟成された音が奏でられる。こんなとんでもない世界では戦えないと思ったものだ。ドボルザークは8番を大学生の時に演奏した。当時9番しか知らなかった撲としては、8番と楽譜を通じて初めて接した。大して参考音源も聴かないような人間だったけれど、練習の中で十分ドボルザークの偉大さは実感できた。演奏してさらにわかる、作曲者の迫力がある。残念ながら9番は演奏することなく今生を終えることになりそうだが、有名なメロディもある9番を演奏者として味わってみたかった気はする。9番というと、ついつい管楽器のソロに注目しがちな気もするけれど、僕は弦楽器の対旋律というか、副旋律というか、あまり表にこないような部分が好きだ。メロディだけならまだ凡庸にも思えるくらいには音楽の歴史は偉大だけれど、そこに弦楽器を含めたオーケストレーションが加わることで、一気に非凡な才能だと気づく。だから、メロディだけを引用したカバー曲等も素敵なのだけれど、ちょっと肝心のところというか、感動ポイントが失われてしまうような気がする。

そういえば、ずっと憧れている楽器にチェロがある。大学1年生でチェリストに転向しそびれたエピソードを持っている。入学当初の数か月だけ、「チェロ」というあだ名で呼ばれたくらいに。結局は打楽器ができることが発覚し、そして自分でも打楽器奏者からは離れられないと自覚し、そのエピソードも忘れられていくのだが。それでも、今でもチェロは特に好きな楽器であることには変わりがない。今のイチオシは宮田大さんで、一度だけ演奏会に行くことができた。たぶん題名のない音楽会か何かで知り、とんでもない才能だと思って、いつのまにか追いかけていた。豊かな才能を応援することは、無上の喜びである。それを安易に推しという言い方をしてしまうのだけれど、ある種の希望と言ってもいいかもしれない。僕は豊かな才能達に生かされている。

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