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「普通の子にしようと思うなよ」

ADHDの息子を育てていると、「おいおい、いい加減にしてくれよ」と思うことがある。というか、そんなことの連続だ。

なにせ息子は傷つきやすくて忘れっぽく、ひたすら明るい。ちょっとしたことでこの世の終わりのように落ち込んだかと思っても、少し経てば忘れてしまい、YouTubeの動画を見てうひゃひゃと笑っている。

だから失敗してもすぐに立ち直れるが、反省や習熟はない。進歩も上昇も見せず、ひたすら同じところをぐるぐる回っている感じ。どれもこれもADHDの特質のなせる業だろう。

先日、どなたかが「直そうにも直らない性質が『個性』だ」と、光浦靖子さんが言っていたとツイートしていたけれど、息子もこれが個性なんだろう。だって、どんなに息子に注意しようとも、もっとしっかりさせようとしても、息子のこの性質は変わらないんだから。

まぁ、変えようとする方がアホなんだろう。そう気づいてから、私は息子に注意したり、勉強を教えたりするときには、必ず心の中でこう唱えている。

「普通の子にしようと思うなよ」

息子はよくも悪くも「普通の子」ではない。だからといって、「普通の子」にする必要はない。というか無理。ああいう謎個性のある人を「普通の子」にしようなんて、竹内力がVシネで高校生の役をやるより無理がある。

だいたい、歯を磨いている最中にもADHD特有の飽きっぽさと忘れっぽさが出て、同じところをずっと磨いていたり、30秒ぐらいで終わらせてしまうんだから、ほんと無理。

そんな息子に対し、私はいまだに歯みがきのチェックをしている。そうじゃないと虫歯になりかねないし、いつまで経っても正しい歯みがきの仕方を覚えないからだ。

きっとこういう状態を、世の中では「過保護」と言うのだろう。でも、私はそうは思っていない。ボギャブラリーの少ない人たちが「過保護」と分類しているものの中には、そうでないものが含まれているってことだ。

息子は世間的には、「弱虫」で「泣き虫」で「根性がない」人間に分類されているんだろうけど、きっとそれも違う。もっと細かく分けた分類があれば、別の名前がついた箱や引き出しに入れられる人だと思う。

なんなら、そんな分類や箱や引き出しなんて要らない。自分なりに生きる道を見つけられれば、分類なんて邪魔なだけだ。だったら私は、生きる道を息子が見つけられるようにサポートすることしかできない。

果たして見つけられるかどうかさえ不安だけれど、息子を信じるしかないのだ。又吉イエスも死んだ平成の終わりには、信じられるものは神でも仏でもなく、人間ひとりひとりの生きる力だ。

だからあと数年、なんとか育てようぜ。そう自分に言い聞かせて、今日も小僧の歯みがきを見守っている。

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