『サカナとヤクザ』と私と根室
鈴木智彦さんの『サカナとヤクザ』を読み返している。これで4回目だろうか。
この本に書かれているネタは、北海道の沿岸地域出身の私としては身近なものであり、あまり頭を突っ込んではいけない話だったりする。
しかし、どうしても読みたくなるときがある。読めば読むほど、根室でのことを思い出すからかもしれない。
私の祖父は呉服商で、店舗を持つ前には行商で稼いでいた。この祖父は金儲けが大好きな曲者で、10代の頃にインドネシアに密入国しようとして捕まったり、株のヤバい取引に手を出したり……といった経歴の持ち主だった。
そんな祖父と一緒に、私の父も行商をしていた。北海道内の景気のいい土地を巡っていたらしく、いちばんの「おいしい地域」は根室だったという。そう、『サカナとヤクザ』の第5章で描かれている、密漁最盛期の根室だ。
当時の根室は、それはそれはものすごい金満都市だったと、父から聞いたことがあった。商売の場として借りた、ある旅館の2階。そこに反物を置けば、どんなものでも売れたと言っていた。
買ってくれるのは漁師の奥さんや娘、ホステス、芸者などなど。ホステスや芸者たちは、「旦那」と呼ばれるパトロンに買ってもらう。旦那のほとんどは密漁で稼いだ漁師たちだ。漁師といっても、ヤクザ濃度70%ぐらいの人たちだろう。
そんな父の行商会場で、ある漁師の奥さんと愛人のホステスが鉢合わせしてしまったことを、酔っぱらった父が笑い話として語っていたのを今さら思い出す。
のちに地元に店舗を構えた父は、母と結婚して私が生まれてからも、根室にときどき出張販売に行っていた。私が幼い頃には3ヶ月に一度、2週間ほどは行っていた記憶がある。
私が小学生になったぐらいのころだろうか。父がイクラの醤油漬けが入った巨大なビンを抱え、根室から帰ってきた。
「うまいぞ。密漁モンだけどな」
「密漁」という言葉になんとなく後ろめたさを感じながらも、私はそのイクラをご飯にたっぷりのせてムシャムシャと食べた。おいしかった。あとから聞いた話では、そのイクラは、ある漁師がツケ払いの延長を頼むために、父に持ってきたものらしかった。
ツケを払えない漁師がいる――つまりその頃には、密漁による根室の繁栄に影が差し始めていたんだろう。
父は私が10歳のときにガンで亡くなった。父の残した店を守ろうと、母は必死だった。小学校が夏休みに入ると、母は私を連れてツケの回収のために根室へと向かった。
寝台列車でたどり着いた根室は、灰色の雲に覆われた薄暗い町だった。昼だろうと夜だろうと、人はあまりいない。そこにいるだけで不安になる。「お父さんはどうしてこんなところで商売をしてたんだろう」としか思えなかった。
宿にした旅館は、かつて芸者だった女将さんが経営していた。「女将」なんて書いたけれど、本当はただの薄汚いババアだ。だけど、出してくれる料理はなぜかこじゃれていた。コロッケにソースじゃなく手づくりのトマトソースがかかっていたり、目玉焼きにハーブソルトっぽいものがかかっていたり。
今考えると、あれは根室の最盛期の名残のような気がする。全国から名だたる料理人が集まっていたころの。
地図と父が残した帳簿を頼りに寂れた町を歩き、ツケのある家を一軒一軒回る。素直に払ってくれる人もいれば、「あと数ヶ月待って」と言う人もいた。30万近くツケが残っているのに、3000円しか払わない人もいた。もちろん、居留守を使う人もいた。
どこもかしこも暗い町をひたすら金を集めながら歩いていると、この世の底を這っている気分になった。「もうやめようよ」と言いたかったけれど、言えない。大黒柱だった父を失い、生きるためにがむしゃらになっている母の、緊張と不安が溢れる背中を見ていたら、とてもじゃないけど言えなかった。
そんな地獄巡りを1週間近く続けたあとで、父が懇意にしていた漁師の家に寄った。その漁師が数ヶ月前にシケの海で亡くなったため、仏壇に手を合わせたいという母の希望だった。
漁師の家らしく沿岸にある平屋には、漁師の奥さんと娘のHちゃんがいた。奥さんはもともとは静岡の出身だと言っていた。貧しさから身売りに出され、流れ流れて根室で芸者をしていたときに、妻に先立たれたばかりの漁師と出会い、後妻となったらしい。
Hちゃんは奥さんの実子ではなく漁師の連れ子で、私と同い年だった。生前、父はHちゃんのことをよく私に話していた。
「Hちゃんはしっかりしてるんだよ。お前とは比べものにならないほどだぞ」
実際に会ったHちゃんは、ほんとうにしっかりしていた。何でもハキハキと答え、私や母にお茶出しまでしてくれた。掃除や洗濯など、家事のほとんどをHちゃんがやってくれる、と奥さんは自慢げに話していた。
そんなHちゃんが、私にこっそり話しかけてきた。
「イクラ、食べた?」
イクラ? ……ああ、数年前に父が根室から持ち返ったあのイクラのことか、と私は気づき、「うん」と頷いた。
「あれ、お父さんがヤクザに頼まれて獲ったやつ」
ヤクザ、という言葉のインパクトに、まだピュアだった私は怯んでしまった。そんな私の様子を見逃さず、Hちゃんはふふん、と笑った。
こちらを見下すような目と、意地の悪さを隠しきれない口元――Hちゃんのそのときの顔は、「しっかりしてるHちゃん」じゃなく、「小学生ながらもヤクザの世界に足を突っ込んでいるHちゃん」のものだった。
それから10年近くが過ぎたとき、その奥さんが亡くなったとの知らせが届いた。噂では、Hちゃんが高校時代からヤクザの情婦となり、奥さんに暴力を振るうようになったらしい。その結果、奥さんは酒に逃げ、それがもとで病気を患って死んだとのことだった。
……と、いろいろととりとめもなく書いてしまったけれど、私にとっての根室はこういう町だった。そして『サカナとヤクザ』を読むと、あの町のすべてを思い出してしまう。あの町にはあまりいい思い出はないし、忘れたい気持ちもあるんだけど、なかなか忘れられないってことは、覚えておいたほうがいいってことなんだろう。