見出し画像

もう笑える日など来ないと思っていた。勅使河原弘晶物語①

もう一生笑える日など来ないと思っていた。お前に生きている価値などないと刷り込まれた幼少期、勅使河原弘晶は恐怖と絶望感以外の感情を失った。自己肯定感など微かにも持てなかった少年は、だが今、僕は幸せでしかたがないと満面の笑みで言う。

勅使河原弘晶(てしがわらひろあき)
元ボクサー。32歳。
元WBOアジアパシフィック・バンタム級&OPBFスーパーバンタム級王者
2022年4月引退。
通算戦績は27戦22勝(15KO)3敗2分。


虐待のかなりきつい描写が含まれています。閲覧にご注意ください。


死んでいたかもしれず、人を殺めていたかもしれない。勅使河原弘晶の幼少期と十代は、死、そして破滅と背中合わせだった。

両親が離婚したのは、離婚がどういうことかもわからない年の頃だった。母は一人で家を出ていき、残された姉と勅使河原は父に引き取られた。幼稚園児にとって母の不在は大きいだろうと思うが、勅使河原に母がいなくなったことを淋しく思った覚えがない。父のことが大好きだったからだ。
「子供にめちゃくちゃ甘い父で、とにかく可愛がられたという幸せな記憶しかないんです」
あーんとの口を開け、父に歯を磨いてもらうのが好きで、甘えるとぎゅっと抱きしめてくれる父の温もりに安心し、体をぴたりとくっつけ、父の太い腕を枕に眠りに落ちるのが嬉しかった。

だがその平和な時間は長く続かなかった。三人が暮らす家にほどなく見知らぬ女の人がやってきた。とまどう子供たちに父は言った。「新しいお母さんだよ」

その義母がやってきてからの約四年間、記憶は断片しか残っていない。
「防衛本能による記憶障害だと思います」

虐待がいつ、どう始まったか「時間的なことはいまだにすべてが曖昧なまま」だ。
 運送会社のドライバーだった父は不在が多かった。
その父が不在の家。まともな食事を出された記憶はない。義母が子供たちに与えるのは家畜の餌以下。残飯をぐちゃぐちゃに混ぜたものに山盛りの味噌と塩、便器を掃除したモップのごみを義母は放り込んだ。
拒絶しようにもできなかった。首元に包丁を突きつけられていたから。
オエッ、グエッ。
無理矢理押しこまれたゴミ。決まって吐いた。その吐瀉物を義母はさらに混ぜ込み、鬼の形相で詰め寄ってきた。
「おら、食えよっ」

小学校に行くことも禁じられ、給食で飢えをしのぐこともかなわなかった。起きている間中、見張られ、水道の水を飲むことも許されない。
日に日に痩せていく幼子たちを、義母は父にばれぬよう顔や服で隠せない場所を避け、木刀、ホウキの柄で容赦なく殴打した。アザだらけの体に、冬には冷水を浴びせ続いた。
「お父さんに告げ口したらどうなるかわかってるな」
スーパーでは万引きを強要され、父の前では嘘を強要された。
家族で外食にでかけても「お腹すいてない」
「お腹が痛いから学校行きたくない」

姉はまもなく母の元に逃げた。勅使河原はそうしなかった。
「お父さんのそばにいたかったんです。僕にとって唯一頼れる人、お父さん以外は誰も信じられなかったから」

いつしか部屋の壁紙をむしり、食べるようになった。飢えを満たすためではない。言葉で助けを求められない父への、無言の、必死の訴えだった。
「不自然に壁紙がちぎれていたらお父さん、何かおかしいって気づいてくれるんじゃないか、って」
 幼い頭で必死に考えたSOS。だが、祈りは届かなかった。

いつのころからか家出を繰り返すようになった。父たちが寝静まった深夜、二階の窓から屋根をつたって飛び降りると、コンビニめがけてひた走った。店員の目を盗んで懐に入れたおにぎりやパンをむさぼり食った。
裸足に寝間着姿。深夜、うつろな目をして店先に座りこむ子供に、コンビニに訪れた客たちの何人かが決まって声をかけてきた。お母さんは? ここで何してるの。
何を聞いても答えない勅使河原に、事情を察したのだろう、その人たちは温かい飲み物やおにぎりを買って食べさせてくれた。見かねて家に泊まらせてくれた人もいた。
「かけてもらった布団があったかくて」
でも朝になればきっと家に帰らされる。どうかこのまま朝がきませんように。祈りながら目を閉じた。
 しかし夜は明けた。連れ戻された家。生き地獄が待っていた。

「自由に行動することはもちろん、自分の意思を持つことも許されなかったんです」

日々体力は削られ、殴打された傷と痛みは癒える暇がない。心に植え付けられていく恐怖と絶望感。

「お前みたいな人間、生きてる価値ないんだよ」
「死ねよ」

「毎日、殴られて、全否定されるような言葉を浴びせられ続けられて、あの当時、僕が唯一持っていた意思のようなものは、死にたいだけだった気がします」

その日々を終わらせたのは、終わらせる勇気を持たせたのは、勅使河原の中で消えかけていた生存本能、だったかもしれない。
「その日、お義母さんがいつも通りゴミを茶碗に入れるのを見たとき、僕の中で何かがブチッと切れたんです」
 もう、嫌だ……僕だけどうしてこんな目に遭うの。もう、もう……嫌だ。
「体ももう限界でした。でもそれ以上に心が、精神がもう、持たなかった」
 茶碗を持った母が近づいてくる。勅使河原は後ずさると、向きを変え、裸足のまま家を飛び出した。義母に追いつかれないよう全力で、交番目がけて死に物狂いで走った。警察官の姿が見えたとき、それまでの数年間堪えていた感情が込み上げてきた。泣きじゃくりながら、勅使河原は初めて「助けて」と声に出した。

↓こちらもお聞きいただけると嬉しいです。

https://twitter.com/i/spaces/1djGXlgRLZOGZ


#勅使河原弘晶
#ボクシング
#ボクサー
#虐待



この記事が参加している募集

#スポーツ観戦記

13,493件

ありがとうございます😹 ボクシング万歳