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湯川博士と梅ヶ枝餅

太宰府天満宮で梅ヶ枝餅を食べた。梅ヶ枝餅を食べたのは、名物だからというだけではなく、湯川秀樹博士(1907~1981)のエッセイにそれが登場するからだった。

大宰府天満宮を訪れた際に食べた梅ヶ枝餅。

湯川博士は日本物理学史のスーパースターだ。原子核をまとめている核力に関する先駆的な研究(中間子論)により、1949年に日本人初のノーベル賞を受賞した。

他方で彼は、物理学の業績以外にも多数の著作を残している。彼の文章センスは独特で、その世界観に引き込まれてしまう。サイエンス作家の竹内薫氏は、彼の著述について、朝永振一郎博士(1906~1979)のそれと比較しながら、こう書いている。

文章の巧みさでいうと、私は朝永のほうが上だと思うが、詩的なセンスという意味では、湯川は光るものをもっていた。

竹内薫『闘う物理学者!』中央公論新社 (2012) p197

さて、話を太宰府天満宮・梅が枝餅に戻そう。湯川博士が著した「大文字」というエッセイにそれらが登場する。エッセイの中では、九州の炭鉱で働いていた末弟と大宰府天満宮を訪れた際、梅ヶ枝餅を食べながら文学の話をしたことが回顧されている。

この末弟・滋樹(ますき)氏は第二次世界大戦の際に輜重兵として戦地に行き、そこで病死してしまう。この出来事は、湯川博士にとって大変心苦しいものだった。別の著作『旅人』にも、滋樹氏の死に対する記述がある。

この末弟が一人だけ、-今度の戦争の犠牲者として-先にこの世を去ってしまった。

湯川秀樹『旅人-湯川秀樹自伝』角川文庫 (1960) p107)

これは『旅人』の中にある、第二次世界大戦に関する唯一の文だ。「滋樹は一番私になついていた」とも書かれている。

戦後、湯川博士は反戦や核廃絶の運動に、亡くなる直前まで、尽力する。まさに、命を賭した活動だった。なぜそこまでしたのか? その原動力の重要な要素に、末弟・滋樹氏の死があったのではないか、と僕は考えている。

湯川博士と滋樹氏のエピソードはとても印象的なものだ。それを知った僕は「太宰府天満宮に行って、湯川博士に想いを馳せながら、梅ヶ枝餅を食べよう」と思った。変な言い方かもしれないが、湯川博士は僕に梅ヶ枝餅食べる理由をくれた。

そして僕は、現地に赴き、実際に梅が枝餅を食べることで、それに梅が入っていないことを知った。

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