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【ひっこし日和】3軒目:701号室

そんなお金がどこにあったのか、子どものわたしには知る由もないけれど、ある日とつぜん分譲の高層マンションにひっこすことになった。団地の一階から、ビルのようにそびえ立つ11階建てマンションの7階へ、である。

同じ地域にありながら、そんなに高い建物が存在することすら知らなかったので本当に驚いた。いちばん嬉しかったのはエレベーター! デパートなんかでしか乗ったことのないエレベーターが我が家についているのだ。ひっこしの日は上がったり下がったり、だいぶんしつこく妹と繰り返して怒られた(子どものころは高所恐怖症じゃなかった)。

さて、701号室は団地とはなにもかもが違った。見える景色はもちろんのこと、感じる光と風が違う。陽当たり良好で太陽が燦々と降り注ぐのに、部屋のなかはちっとも暑くならない。窓をちょっと開ければプリントが飛んでくぐらいの風が部屋に舞い込むからだ。夏の暑い夜、母にうちわでパタパタされながらじめっとした布団で寝ていた325とは完全に別世界だった。ああ、本当の地上とはここだったのね!と叫びたい感じ。

家だけじゃなく、これを機にさまざまなものが新しくなった。布団から二段ベッドへ、オーディオやテレビも大きくて新品のものへ、ソファやダイニングテーブルも加わった。ピアノが来て、犬が来た。自分まで変わってしまうようだった。

そうしてまもなくわたしは小学生になった。マンション中の子どもが一階の中庭に集まってぞろぞろと登校……したはずだけど全然記憶にない。あるのは、ひとりで帰りに歩いた緑いっぱいの通学路。虎杖がわさわさと生えている場所があって、皮をむいてかじりながら帰った。よもぎを摘み、つつじの蜜を吸い、アベリアを鼻にくっつけてとぼとぼと。断片的だけれど、とても好きな道だった。自分は天才かと思うほど学校の授業はかんたんで、友だちもなんとなくできて、なんにも思い悩むことがなかった。

そんななかでひとつだけ、暗い記憶があった。早川くんである。

早川くんちは601号室、つまり我が家の階下にあり、おじいさんとおばあさんと早川くん、それに仕事で夜遅く帰ってくるらしいお父さんとお母さんが住んでいた。団地の一階にいたわたしたちがまったく思いもよらなかったこと……、それはうちの音が早川くんちに筒抜けになるということであった。

トイレの音、ピアノの音、ベッドから飛び降りた音、きょうだい喧嘩の声、お風呂の音、箸が落ちてもわかるんじゃないかと思うくらいちょっとした音もぜんぶ早川くんちに伝わって、そのたびおじいさんがインターフォン越しに苦情を言いにきた。手紙のときもあったかもしれない。このおじいさんがちびまるこちゃんちのおじいちゃんみたいじゃなくて、レミーのおいしいレストランに出てくる評論家のように細くて神経質そうな顔をしている。なにかするたび「早川くんちに怒られるよ!」と母が脅すので、わたしも妹もすっかり震えあがっていた。

ときおり、父の出張みやげだとかどこかに行ったときの名産だとかを持って行くよう母に言われるのだが、これが超いやだった。このまま6階から捨てちゃおうかなと思うくらいいやで、あー、チャイム鳴らそうかなー、おじいさんが出てこなきゃいいなー、早川くんしかいなきゃいいなー、と散々ウロウロしたのちに鳴らすと、100%の確率でおじいさんが出てくるのである。ホラーだ。

早川家の玄関が開くとお線香の匂いがした。背の高い屏風みたいなもので部屋の中が見えないように隠してあって、なんだか妙だった。わたしがおいしい何かを渡しても、おじいさんはありがとうとか言わない。ん、みたいな、おう、みたいな声を出すだけで、わたしもそそくさと7階へ戻る。ちなみにまだおじいさんがあそこに住んでる気がして怖いので、早川くんは仮名である。

さて、そんな701号室での忘れられない思い出をひとつ。

あれは冬の日、母が妹の引き出しからなにやら白い泡の塊のようなものを見つけた。食べるのを忘れて固まってしまった綿あめのようなもので、触ると少し硬い。なんだろうと思っていると、妹が「散歩のときに見つけたカマキリのたまごだ」と言った。

それはそれはと母はティッシュの箱に入れ、ラップフィルムで表面を覆ってくれた。呼吸ができるよう楊枝で穴をあけて、ピアノの上に置かれたその箱をわたしたちは日に何度も眺めた。「まだ生まれないね」「全然変わってないね」と言いながら。

そしてある日、生まれた。

朝、母がわたしたちを起こしに子ども部屋に入ってくると、小指の爪にも至らないほどのカマキリの赤ちゃんが生まれていたのだ。びっしりと、カーテンに、無数に。

母は早川くんちのおじいさんが泡をふくぐらいの悲鳴をあげ、わたしたちはそれを聞いて起き、あとにつづいた。わたしはあのカマキリのたまごから一匹の赤ちゃんが生まれるもんだと信じて疑っていなかった。まさかまさかあんなにたくさんの子があんな小さな塊に包まれていたとは、夢にも思っていなかった。

それからどうしたのかは申し訳なさすぎて言えないが、二段ベッドの上から見たあのカーテンの光景は一生忘れられない。

二度とカマキリのたまごには触りません。


つづく







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