見出し画像

創作大賞感想【バースデーバルーン/ソウアイの星/青豆ノノ】

前半がネタバレ無し、後半がネタバレありになっています。
ネタバレタグをつけると、避けてしまう方もいらっしゃると思うので、先に断り書きをつけることにしました。よろしくお願いします。


 青豆さんとの出会いは、いつだったのだろう。
 いや、覚えている。昨年。昨年の夏、私は「青豆ノノ」さんを知った。

 コメントをしたのは、おそらくこれが最初、だと思う。

 そして、さらにこちらでガツンと衝撃を受けた。

 先ほど私は、出会いは昨年、と書いたが、本当だろうか。昨年?何かの間違いではないだろうか。ずっと前から彼女の作品を読んでいる気がする。それもそのはず、青豆さんは多作で、月にある日数の軽く1.5倍くらいは記事を更新している。note内の企画ものにも数多く参加し、Xでは大喜利などもやっている。数が多いだけではない。濃度が濃い。だからなんだか、ずいぶん昔から、作品を読んでいる気がしてしまうのだ。

 青豆さんの世界と文章が、人を引き付ける力は凄まじい。
 noteの中で、彼女の虜になった人は数知れない。「青豆推し」と訊いたら相当数の手が挙がるはずだ。
 noteは創作、特に小説が読まれにくい傾向にあるにもかかわらず、彼女の「スキ」の数は群を抜いている。
 天性のものがあると思うが、なによりも青豆さんの創作への向き合い方がそこに出ているからだと思う。
 表現したいことに対し、真摯で、ひたむきで、まっすぐに感じる。こつこつと鍛錬を重ねているところに、決して多弁ではないのにはっとするような感性に満ちた文章がきらめく。誰も無視できない。

 私がどれほど「青豆推し」かというと、こんな感じだ。

青豆さん✨おめでとうございます!!
私は青豆さんはいずれ小説家になる方だと思っているので、いや当然最優秀ですよ、高橋源一郎さんわかってないなくらいな気持ちです。どんだけ上から〜🤣笑

 いまも本気で思っている。笑

 青豆さんは、天性の輝き+努力の人。私は作家さんというのは「努力」の部分がものすごく大きいと思っている。細かい作業の積み重ねを、どれほど厭わずやれるかどうかだと思う。青豆さんは自分の伸びしろを楽しんでいる、と上の記事に書いていた。実際、そう思う。すでにこれだけのファンがいるし、リアルでも応援してくれる人が幾人か後ろにいらっしゃる。伸びしろを楽しみながら、前に向かって行って欲しい、その背中を押したい、と常々思っている。「推したい」は「押したい」「お慕い」だなあ、と最近、だいぶわかってきた。私も成長しているのである。笑

 そんな青豆さんが今年の創作大賞に放った作品から、ふたつを選ばせていただいた。

『バースデーバルーン』はカテゴリー分けが難しい作品で、2万字の規定に満たないので「オールカテゴリ部門」になったのだろうと思われる。
 青豆さんの作品の中でも、私は、シュールな設定や寓話的な物語がとても好きだ。この物語は「シュール」「寓話的」なほうに入る。
 あらすじはざっと次のようなものだ。

 「ぼく」の8歳下の妹・福子は、生まれつき頭が大きかったが、成長するにつれますます頭だけが膨らんでいく。「ぼく」は家を離れ、福子の二十歳の誕生日に帰ってくる。福子はますます頭が大きくなり、部屋から出られないほどになっていた。「ぼく」は幼いころに福子と読んだ絵本を持ち出し、なんとか福子の心を慰めようとするが・・・

『ソウアイの星』は青豆さんのチャレンジが感じられる作品になっている。恋愛小説部門ノミネート作品である。

 主人公の流香は、心の中にルナという友達がいる。人格が入れ替わるのではなく「イマジナリーフレンド」というような種類の存在だ。
 流香はCALETTeというバンドのファンで、ボーカルの朔也とはマネージャーの華を通して親しくしている。華は健というギタリストと同郷で、つきあっていた。流香と朔也はお互いに気になる存在だが、流香は〝ファン〟と〝アーティスト〟としての関係を維持したいと考えている。逆にルナは朔也への気持ちは恋だと考えていて、ふたりは対立していた。そんな時、朔也が声帯の手術をすることになった。流香はファンとして見守ることにするのだが、やがて自分の本当の気持ちに気づく。

 このあらすじに出てくる華と健の物語(『ソウアイの星』の前日譚)はこちらだ。

 東京・吉祥寺を舞台にした、瑞々しく切ないラブストーリーだ。
 主人公の流香と「CALETTe」というバンドの創生と危機に寄り添いながら、「推し」のいる生活を一緒に味わっているような気持ちになる。
 ファンとアーティストの恋愛はいつの世も、禁じられたり、障害が立ちふさがったりして、波乱万丈だ。作者の青豆さん自身にも大切な「推し」バンドがあることもあって、ファン心理と恋愛の間で揺れ動く「推しへの愛」の描写が真に迫っていると思う。「CALETTe」のボーカル、朔也と流香がどうなるのか、目が離せない。

 どちらも完結していて、どちらもレビューしたいので、少し長くなるがふたつのレビューを書いていこうと思う。
 そして私の感想文はネタバレ必至である。
 まだ二つとも読んでいない、という方は、ここまでで。




バースデーバルーン

 この物語を読んで、最初に書いたコメントは、こちらだ。

やっと読めました。
読みながら、切ない気持ちでいっぱいでした。
ふとカフカを思い出しました。『変身』で、姿の変わったザムザを助けてくれるのは、唯一妹でした。でもその妹も、最後は兄を見放します。でもこの物語のなーなは違いました。一度は見放しながらも、戻ってきました。それは福子にとって残酷なことだったのか、それとも救済だったのでしょうか。これは母親と福子の物語なのだと思いますが、母と娘は直接戦うことができないで、出口を見失っています。こんなふうに、出口がわからなくなってしまった家族は、今この世に沢山あるような気がします。家族は選べないけれど、でも救えるのも家族の力。素晴らしい物語をありがとうございます。もちろん、全力で推します。

 もうこの時から語りたいことはたくさんあったのだが、抑えに抑えてこの文章量。私はいつもコメントが多い。長い。それはきっと良くないことなのだと思う。書いた人にも負担になってしまうのかもしれない。でも素晴らしい作品を読んだら、書かずにはいられない。そのためのコメント欄のはずだ。たぶん。などと自己弁護してもしかたがないのだが、とにかく、上記のようなコメントを書いた。

 福子の頭が膨らむことについて私が思うのは、彼女は身体の病気ではなく、心の病気だということだ。「あたまでっかち」を、彼女自身がこう分析している。

「自分が頭でっかちなことを知ってる。皆がわたしを避けていることも知ってる。それは見た目の異様さではなくて、この可愛げのない性格のせいだってことも、知ってる。このままではいけないことも知ってる。本を読むより、体を動かした方が良いことも知ってる。
 ……知ってるふりして、実際には世の中のあらゆることを一つも経験していないことも知ってる。全部知ってて、それなのに、何一つうまくいかないの」

 情報量が多すぎて頭がパンクする、と表現するのをよく聞く。彼女の場合は、その容量が可視化されてしまっている。この作品は寓話的なので、カフカの『変身』のように「本当に虫になる」のと同様「本当に頭が膨らんでいる」のだと思うが、極度の「情報過多」を表しているように思う。そして「見た目に異様」ということは、彼女自身がそれをコントロールできない状態であることを示している。高くなった身長を低くすることができないように、成長による変化であるならば、なんらかの努力で頭を小さくすることはできないからだ。自分ではどうすることもできない。

 いちどは出て行った兄が戻ってきて、ほぼ寝たきりのようになっている彼女を何とかしようとする。妹は「私を捨てた」となじりながらも、兄だけが自分を本当に気にかけてくれていることを知っている。

本棚の一番下にある絵本を、腰をかがめて引っ張り出そうとしている僕に、母は小声で言った。
「何してんの? ねえ、福、起きてた? あの子ご飯食べるかしら。食べないなら今朝の味噌汁、もう冷蔵庫にしまうんだけど」
 母は返事をしない僕にひっきりなしに質問をぶつけてくる。そんな母に、僕は訊いた。

「ねえ、今日はふくちゃんの誕生日だけど、なにか声かけた? おめでとうとか、生まれて来てくれてありがとうとか。あ、愛してるとか……」
 僕はその場に泣き崩れた。
 母は焦った様子で「いったい、あんたまでどうしたのよ」と肩を揺らしてくる。
 どうもこうもない。今日、しっかり伝えないといけないってことに、僕は気がついたんだ。

 この場面の母の言動は、それこそ異様である。母が気にしているのは、福子がご飯を食べるか食べないかだけで、今日が誕生日だとか、福子の身体の心配とか、そういったことをいっさい考えていない。母にとっては娘は「異形」になってしまった存在で、慈しみ、気にかけ、愛する存在ではもはや無くなっている。
 母が何を言おうとも「知っている」としか答えない娘。「知っている」のに「何もしない」娘。あまつさえ、母親の無知を嘲ったり、貶したりする娘。反応の異なる娘に絶望する母。
 この世には、そういう親子が山のようにいる。母は自信を失い無気力となり、娘は頭だけが肥大していき、心を損なっていく。
 ただ、「愛している」と言えればいいだけなのに。
 風船のようになって飛んで行った猫を「待ってくれる」人であってほしいのに。
 ふたりはただすれ違い、相手を見失ってしまったのだ。

 福子は風船になって、二十歳の誕生日に飛び去った。
 それは「自殺」なのかもしれないし、家を捨てたのかもしれないし、身体を捨てて完全に心を宙に飛ばしてしまって戻ってこないのかもしれない。そういう人は、現実にいる。
 この物語に描かれているのは、兄「なーな」との関係ではなく、「母と娘」「家族」の難しさ、なのだ。
 兄は、福子が違う体でどこかで生きていればいい、と願う。
 それがとても無責任で自分勝手な願いだと知っている。自分を含め家族は、あるがままの彼女を受け入れることができなかった。
 家族に馴染めない、親に疎外される、ということは現実に起こりうる。そうなったら福子のように、癒されないまま出て行くしかないのだろうか。
 深い物語だと思う。


ソウアイの星

 吉祥寺に住んでいたことがある。
 ほんの短い間だったが、とても魅力的な街だった。
 だから、『ソウアイの星』の舞台は、どこもかしこもリアルに思い描くことができた。それだけでこの物語は、私にとって特別なものになった。

 流香の中には、ルナというイマジナリーフレンドがいる。イマジナリーフレンドは、児童期において割と普通の現象だそうである。残念ながらわたしにはイマジナリーフレンドがいなかった。成長に従い消えてしまい、記憶もなくなるらしいので、もしかしたらいたのに覚えていないのかもしれない。

 流香の場合、はっきりと別の名前をもち、違う人格を持った存在がいる。

 最初に『ソウアイの星』を読んだとき、なんとなく矢沢あいの漫画『NANA』を思い出した。「性格が正反対な女の子がふたり。バンドをめぐる物語」からの連想だったかもしれない。
 漫画の方は、大人になってから読んだからあまりのめりこめなかった。映画は楽しく見た。中島美嘉さんのインパクトが強くて、ストーリーよりライブシーンしか覚えていない珍しい映画になった。漫画は、2009年から作者療養のため休載中で完結していないだそうだ。

 『NANA』との直接の関連性は、この物語にはない。ただ、あの漫画には「ファン」と「アーティスト」という垣根を簡単に飛び越えてしまった「ハチ(本名は奈々)がいた。通常、普通の生活をしていて、まさかファンクラブに入るほど大好きなバンドの憧れの人から電話がかかって来るとかありえないが、ハチはたとえ相手が遊びでもいいから(ちょうど失恋したしナナと喧嘩したし)とついていく。あれが普通、とちょっと刷り込まれている感じがあったかもしれない。結局すったもんだのあげく、ハチ子はその人と結婚するのだが・・・
 この物語の主人公・流香は、「推し」である朔也ととてもいい感じになりながら、「ファン」でいたい、と、好意的な朔也のアプローチにも壁を作る。そうしてみると、「ファン」としての目線で見たハチ子はかなりヤバい女なんだな、と思う。笑

 流香が「ファンとしての矜持」として朔也から離れるところでは、「なんで?」と思う人もいるかもしれない。「それでいい。それこそが推しへの愛というもの」と思う人もいるかもしれない。
 これから売れていくに違いないバンドのボーカル。手の届きそうなアイドル。LINEするほどまでになったのに。思わせぶりな言動までされているのに。というか明らかに「特別な存在だよ」とアピールされているのに。
 みなさんなら、どうするだろう。
 私なら、どうするだろう(あ、若かったらね)。

 それはつまり「永続性」ということを、流香が求めた、ということなのだと思うが、流香の中にいるルナは、朔也への気持ちに正直でいたい、と、どちらかといえば『NANA』のハチ子に似た考えを持っている。
 流香がすることなすことが、ルナには気に入らない。なぜ素直にならないのか、本当は好きなのだろうと言うが、流香は頑なに「推し」への感情は恋愛感情ではない、と言い続ける。

 朔也にボーカリストとしての危機が訪れ、喉の手術をすることになって初めて、流香は彼への気持ちが恋愛感情だと認めることになる。
 上り調子のときではなく、彼が絶望し不安になっているときに求められたということが、流香に「どんな時もそばにいたい。歌っていない時であろうと」という気持ちにさせ、恋愛感情を目覚めさせたのかもしれない。

 ラストシーンで、彼は新曲の自分の声に満足できない様子で、ステージから立ち去る。その姿を見守り、流香はルナに言う。

 「ねえ、ルナ」
 わたしは泣いているルナに静かな声で話しかけた。
「わたし、どういうわけか、燃えてきてる」
 わたしがそう言うと、ねえ、おかしいよ、とルナは洟を啜りながら言った。

「だって、朔也くんがこれで終わるわけないから。きっと、不死鳥のように蘇るはず。わたし、〝推し〟に関しては良く勘が働くの」
 わたしは密かに胸を高鳴らせた。

『真のファン、マジ怖い……』
 ルナがため息混じりに言った。

「ルナ。今日のことは、のちのち伝説として語り継がれることになるから、よーく覚えておいてね。わたしたち、CALETTeカレッテの重要な歴史の一ページに立ち会っているのよ」

 ルナは呆れたのか、もう何も言わない。

「ルナ、一緒に支えようね。朔也くんと、CALETTeのこと」

 わたしはファンだから。朔也が選んだ道を、ただ追いかけていく。
 朔也が復帰を目指すなら、わたしはずっと彼の復活を待ち続ける。それに何年かかろうと少しも苦にならない。朔也が必ずまた輝くことを、わたしはずっと信じていられるから。

 流香の中で、「ファンでいること」と「恋愛対象として好きになること」は、それまで相対するもので決して結びつくものではなかったのだろう。好きになったらファンではいられなくなる、ファンでいる限り好きになってはダメだという、二択しかなかったのに違いない。そこに「好きだとしても、今まで通りファンでい続ける」という道が開けた。
 それは曖昧な関係かもしれないが、「相愛」には違いない。

 夢があっても上手くいくことばかりではない。
 それでもまだ「結果」はなくて「これから」だけがある。

 このシーンで、私が気になったのは、この一文だ。

ルナは呆れたのか、もう何も言わない。

 「一緒に支えようね」と流香が言ったあと、この後最後まで、ルナは登場しない。もしかしたら、ルナはもう、流香の前に現れないんじゃないか―――これは、流香とルナの、統合の物語でもあったのではないか。

 青豆さんがフォーカスした「ファン」、「推し」という「純粋な愛」は、流香とルナが「ソウアイ」になることで朔也を包む大きな愛になったのかもしれない。

 青春の輝きが眩しいほどの力作に出会えて幸せだ。きっとずっと、この作品を忘れることはないと思う。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?