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「早すぎて遅すぎて」を読む

原題 Trop tôt, Trop tard (1980-81/101分/16mm)
監督:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ
撮影:ウィリアム・ルプシャンスキ(第一部)
第一部:フランス革命

シトロエンが70年代のパリ市内を走行する。二人乗りのバイクが横切る。
日時も、正確な日付も分からないが、日の光から午後に近い時間のようだ。季節も初夏か、晩春か、定かではないが交通人の様子からほんのちょと肌寒いのかも知れない。その前に小鳥の鳴く音と教会の鐘の鳴る音が漆黒のタイトルバックから聞こえる。クラクションが鳴り、パリの車道が写しだされる。交通に渋滞は見られない、車の数はそれなりにあるのだが、大型バスやトラックは視界に入ってこない。似たような大きさの車が同じ方向に走行するのを眺めている。どちらかと言えば小型な車両だ。大きさで圧倒する傲慢さは走行する小型車からは感じられない。七方向の道が交差する広場の回りを何周も走行するシトロエン。一周、二周、三周、四周、五周、六周、七周、八周、九周、十周、十一周、十二周、十三周、十四周、十五周。

フランス語のナレーションが始まる。
出典はエンゲルスのカウツキー宛て書簡。
「ブルジョアはいつものように卑怯この上なく利益確定には抜かりが無い」
バスティーユ牢獄襲撃から始めるよう。民衆はやらねばならない仕事をこなしたのであり、彼らの介入なしには1789年7月14日の事件も8月10日、9月12日、10月5~6日の事件も成し遂げられなかっただろう。

7月14日 バスティーユ牢獄が襲撃される
   フランス革命の勃発
8月10日 テュイルリー宮殿襲撃
   パリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ16世やマ リー・   アン トワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉し た事件で   ある。
9月12日 九月虐殺
   フランス革命において1792年9月2日から数日間にわたって行われた    パリの監獄で起こった虐殺。殺害された人数は1万4千人とも、1万6 千   人ともいわ れる。
10月5日 ヴェルサイユ行進(十月行進)
   5日~6日女性を中心約7,000人の主婦らが「パンを寄越せ」とした パ   リ市民がヴェルサイユ宮殿まで行進し、フランス国王ルイ16世を パリ   に連行した事件である。

ブルジョアはいくども貴族どもの誘惑に負けてきた。宮廷と連帯を組み、そのたびに革命を妨げてきた。故に下級市民である人民だけの力で革命を成し遂げたのである。革命は人民無しに成し遂げる事は不可能であった。ブルジョアの革命への要求には平等も友愛を推し進めるものは無い。
歴史のアイロニーである。
人民の革命の大義の反対側にブルジョアの平等性がある。法の前、そして友愛は食い物にされる。

エンゲルスがロンドンのカウツキーへ宛てた手紙は1889年とある。フランス革命勃発から100年後である。

革命の名のもとに貴族と豪商であるブルジョアが利権闘争をした時代、博愛、平等、人権、自由と言うが、否、そこにはカリビアンのサン=ドマング奴隷、ヴァンデー地方の小作人は数に入ってないのだよ。

フランスの田園がつづく昼下がり。
18世紀末の農村の貧困状況がエンゲルよって分析される。
フランス革命期に多くの小作人は貧困に苦しみ、物乞い、義援金に頼っていた。豊作をもたらしていた地域でさえも、小作人で農地を持っているものなど殆どいなかった。ブルターニュ地方の三つの村のな中、カレ県の実情。
10家族は食事に困らない状態。
10家族は貧困状態。
10家族は物乞いをして生きている。
モトレフでは47の家族が食事に困らない状態、64家族が貧困状態。
ポーレは200世帯が物乞い。
アルジャントレ2300住民は商業や工業従事者ではなく、極貧状態。 300人は物乞い状態。

鳥の声、石造りの民家、畑、人影はない、田園風景。
1980年代のフランスの農村。貧困の気配はない。
フランス革命から200年以上、この村の主産業は農業だったのであろう。
風が過ぎる音、小鳥の囀り、夏は熱気は雲の運行を速める、人影はない、遠くを水色のトラックが通る、エンジンの音。雲の影が砂利道を横切る。
ホルスタイン牛(六白牛)の群れが車道を歩く、3頭づつ横並びで行進する姿。先頭の雄牛が威嚇するように啼き出す。30頭が後をついていく。

ノルマンディー地方では1500人のセント・パトリック教会員が貧困、400人が義援金で生活を行ってる。

田舎町、白い壁の建物と教会。
空は雨雲を含んでいるが、夕立が来るまでは時間があるだろう。近代的な街灯電柱は田舎道に植えられている。野鳥の声に混ざって鶏の声、そして車のクラクション。
麦畑、稲穂が風に南に西へ揺れる。雲行きが怪しい。
大樹、30メートルはある杉の木。やはり雨が降ったのだろう、車のタイヤが水しぶきを上げる音を巻き込んでいく。
緑葉野菜畑。どんな野菜かは分からない。

エクサン県では、143家族の内65家族が極貧状態。
ランド県では413家族の内100家族が極貧状態。
ムーズ県では、その三割が仕事もなく乞食に落ちぶれる。
ル・ピュイ=アン=ヴレでは120,000人の住民の内5887人が税金が未払い。
パリの65万人市民の内、11万8784が極貧状態。
リオン市の3万人が乞食になる。
レンヌの住民の3割が義援金を受け取る。
ジュラ県 は6518住民の内、市民の権利を持っているのは725人のみ。

ビルディング建設中のクレーンが見える。カメラは丘の上からパンをして街を映す。
水の音、沢の流れる音。畑をなでる風。夏の雲。遠くに走る貨物列車が横切る。鉄道の鉄が車輪の鉄を打付ける音は遠い記憶を呼び起こす。20両編成。汽笛まで望むのは、すでに贅沢であろうか。
雑草が生い茂る。夏の雲。野鳥の声。

友愛という革命であれば早すぎた。
バブーフが唱える革命(共産主義)であれば遅すぎた。

フランソワ・ノエル・バブーフ(1760年11月23日 – 1797年5月27日)
貧しい農家の長男として生まれた。
平等社会の実現を目指して私有財産制を否定し、いわゆる「バブーフの陰謀」を企てたが、失敗して刑死した。「共産主義」や「独裁」という用語を現代の意味で初めて使った使用した人物の一人であり、革命は少数の革命家による権力奪取と革命独裁によってのみ実現可能と主張して後の共産主義思想に大きな影響を与え、「共産主義の先駆」とも呼ばれる。

国道を通り過ぎる車の音がどこまでも続く。
壁に描かれたスプレー文字。

Les paysons se revolteront 1976
小作人は決起する 1976

<フランス革命の流れ>
1780年代、フランスでは45億リーブル(2017年時点の日本円で54兆円相当)にもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。
ルイ14世時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代の財務総監ジョン・ローの開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にアメリカ独立戦争への援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた。当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていたことになる。

1775年4月19日から1783年9月3日 アメリカ独立戦争
1783年  パリ条約
1783年  アイスランドのラキ火山噴火噴煙が原因でヨーロッパ各地で農作不    良が起こる。
1789年7月11日 ネッケル財務長官解任
   (ブルジョワであったため、フランスでは第三身分で)解任
   王妃マリー・アントワネットとその寵臣に質素倹約を進言したため、   王妃 や保守派貴族たちに疎まれ、フランスの財政再建は進まないま    ま、1781年 にルイ16世によって罷免された。
1789年 全国三部会を召集したが紛糾
   ルイ16世はそれまで特権階級であった貴族や聖職者にも課税。
1789年7月14日のバスティーユ襲撃
           7〜8千人とも4〜5万人ともいわれる群衆が廃兵院に押しかけて武器      と弾 薬を引き渡すように要求して約3万2000丁の小銃と20門の大砲を   奪い去っ た。
1789年8月27日人権宣言を採択
   この時点ではまだ国王が主権者であり、法律の制定には国王の承認が   必要 であった。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、こ   れらの宣 言を承認しなかった。王妃マリー・アントワネットが第三身   分を侮蔑して いたのをはじめ、国王の周囲は強硬派で占められていた   のである。
1789年810月5日、パリの数千の女性たちが武器
   雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、 国王   と 議会に食糧を要求した。一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの    圧力に より人権宣言を承認し、彼女らに連れられてパリのテュイル    リー宮 殿に家 族とともに移り住む。これ以降、ルイ16世一家はパリ   市民に監視さ れて暮 らすことになる。
1790年9月4日にネッケル財務長官辞職
   財政再建策を見出せず、民衆の支持を失っていく。1790年9月4日に辞   職 し、生まれ故郷のジュネーヴに引退するし、生まれ故郷のジュネー   ヴに引 退する。
1790年 ラファイエットら立憲君主制派の提案により三色旗
    革命の旗となった。
1792年4月4日 カリブ海の植民地のサン=ドマング
    有色人自由人の平等を決議植民地の大多数を占めた黒人奴隷の不満    は収ま らなかった。
1793年1月21日  ルイ16世ギロチン処刑
1793年10月16日  マリー・アントワネットギロチン処刑
1793年3月 ヴァンデの反乱
     フランス南西部のヴァンデ地方で起こった農民反乱。
     貧しい機織工で信仰心の厚いカトリノーが指導者
1793年6月 カトリノー戦死
     ヴァンデーの反乱鎮圧後も、農民反乱はゲリラ化し、尚も各地で     散発的な 蜂起が1975年ごろまで続いた。
1793年8月23日 ジャコバン派は、「国家総動員」を布告
     ジャコバン派の恐怖政治.徴兵制度を実施し軍備を整え、諸外国の     干 渉戦争への反撃に成功した。
1794年7月27日テルミドールのクーデター
     ジャコバン派独裁に対立する勢力によるクーデターである。
     この事件により実質的に一連のフランス革命は終焉したとされ、     市民革命 は終わりを告げた。
1799年 ブリュメールのクーデター
     ナポレオン・ボナパルトによるクーデターと帝政樹立
1814年4月6日復古王政期
    1815年の王政復古により王位に就いたルイ18世は、フランス革命に    よる成 果を全く無視して、時代錯誤もはなはだしい反動的な政治を    行った。この 復古王政による政権は、アンシャン・レジームよろし    く貴族や聖職者を優 遇する政策をとり、市民たるブルジョワジーの    不満は当然高まることに なった
1830年7月27日 フランス7月革命
    1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。

最終的な決着は第三共和政の成立を待たねばならず、革命勃発より80年以上かかった。


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