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母子寮と生活保護と虐待で育って25歳になった、俺の話を聞いてくれ

コタキナバル(ボルネオ島)で25歳になりました!

初海外バースデー🇲🇾 

が、しかし、「あまり祝ってもらうほどの人間でもないよな…?」と、先程まで一緒にいた友人に最後の最後で、「今日実は誕生日なんや!バイバイ!」と言ったところ、「いや、それは先に教えてww」と言われました😇

箇条書きで人生をまとめる

わたしの人生は、
・母子寮
・病気
・虐待
・いじめ
・生活保護
・親の自己破産(わたしがさせた)
・親の閉鎖病棟入院(わたしがさせたpart2)
などなど、『いかにも』なことで構成されている。

その全てを書くととんでもない量になるので、それぞれ、なんとなくインパクトの大きかったことだけ、書き記してみる。

わたしは今、シンガポール行きの飛行機を待っている。

高校の時の修学旅行先がシンガポールだった。

けれど私は参加しなかった。

家にお金がなかったので、皆と同じように参加する選択肢がなかったのだが、幸いにも当時そんなに高校に思い入れがなかったため、さほど辛い想いはしなかった。

ただ、シンガポールの地をこれから踏むと考えると、わざわざ英語の授業が多い高校を選び、海外に興味を持ち、本当は行けるものなら行きたかったはずの17歳のわたしを想い、涙が出そうになる。

君は、8年後、自分で稼いだお金でこの地を踏めるよ。

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さて、ここから本編。
短くしたつもり、でも長いと思う。
しかし25年の人生分、エンタメとして読んでもらえると嬉しい。

▼小学1-4年生

小学生に上がるまでで特筆することはない。親が離婚したくらいで、あとはキャッキャする子供だった。

小学生に入る少し前、母子寮に住み始めた。
その名の通り母子家庭の子どもが住む寮である。

ここが母子寮であり、若干5歳にして早速セーフティネットにお世話になっていたことは、随分後になってから気がついた。

この暮らしこそが、わたしのスタンダードだったからである。

8歳で髄膜炎になった。

ある日突然頭痛と背中痛がひどくなり、歩くのもままならない中、近所のクリニックに行くと「すぐに入院の準備をして大学病院に行きなさい」と言われた。

背中にぶっとい注射を刺して髄液を抜いたりなんだりしながら一ヶ月強入院した。

あと少し遅かったら命が終わっていたかもしれなかったらしい。

この時に割り算や分数の授業をすっ飛ばすこととなり、それで算数がめっきりダメになってしまったのだと信じている。

同じ年の秋、おばあちゃんが亡くなる。

まぁいろいろあって、おばあちゃんはほんとうのおばあちゃんではないのだけど、そんなことは関係ない。

優しくて面白くて料理がうまくて、ちょっといい匂いで、抱きしめられるとふにふにとやわらかい、本当に大好きなひとだった。

彼女が生きていたら、僕の人生はもしかすると、こんなにぐちゃぐちゃにならなかったのかもしれない。

小学生の僕たちが願い、応援したこと

9歳だったかと思う。

寮のエントランスに七夕の笹が飾られた。「みんなで願い事書こう!」と思い思いに書いた中、ひときわよく覚えている短冊がある。


「パパとママがりこんしますように」


これを見た時は「叶うといいな」しか思わなかったのだが、普段は無邪気に遊ぶ小学生の私たちも現実にこのような願いがあり、友人がそう願うことを普通に受け入れ、否定も肯定もせずスッとエントランスに飾ってくれる大人がいた、
何だか言い表せぬ文化というか、そういうものが流れる場所であった。  

ある日、この寮が移転することになった。

これを機に寮を出てその地に残る家族もいたが、多くの家族は寮と共に引っ越しをすることを選んだ。わたしもそうだった。

人生で初めての転校である。

▼小学5年生

初めての転校は呑気なもので、寮の皆と一緒だったので寂しくも辛くもなかった。

新しい小学校は、前の場所よりもマセている感じがあった。

ここにはボスのような女の子がいて、みんなその子の言うことを聞いていた。

男の子には授業中、謎に腕に噛みつかれたこともあった。

この地には一年しかいなかったけど、6年生のお兄さん2人とやった水曜日の放送委員だけが唯一恐れるものがなく楽しかった気がする。

あんまり思い出はないはずなのに、また転校することが決まったときにはたくさん泣いた。

慣れない環境に行くことが嫌だったのかもしれない。

▼小学6年生

寮を出て、練馬に引っ越しをすることになった。

友達はすぐにできたけど、いろんなグループにいたら「八方美人やめなよ」と言われるなどした。

でも多分、今でもわたしは八方美人だ。

結局ここも一年いて卒業になったので、卒業アルバムに自分はほとんど映っていないし、卒業式の日はインフルエンザになってしまったので出られずじまいで、終わったのかもわからないうちに小学生が終わった。

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▼中学1-2年生

小学6年生のときにやってきた練馬で、中学校に進学した。テニス部に入って週6で部活をした。

入学してすぐ、小学生のころ仲が良かった友人から突然無視されたり馬鹿にされたりするようになった。

ひと学年70名ほどの小さな学校だったので、テニス部、そのうちクラスの女子にも広がり、ほとんどの人があまりわたしと話してくれなくなった。

なんでかなぁと思っていたけど、靴を隠されたり、教科書を捨てられたり、筆箱をトイレの水の中に落とされたり、キモいと言われたり、部活中には砂をかけられたり、学校で何をするにも楽しい場面がなかった。
というか筆箱はひどいだろ👆

部活では散々無視してくる子も、「本当はよっしーのこと好きだよ、でもあの子がいる前ではいい顔できないんだ。ごめんねー」と言われ、影では遊んでいた。

当然「意味わかんねぇよ」なのだが、週6で顔を合わせる仲間だし、普段結構ひとりだったので、遊んでいたのだと思う。

多分2年生になったくらいに収まった

収まったというよりは、「ターゲットが変わった」だ。

対象が僕ではない他の子になった。

もう次は僕のところに来ないようにと、同じようにその子を悪く言うこともあった。でも途中でやめた。

やっぱり意味がわからないからである。

当たり前だけど今まで散々してきた人たちに、いきなりいい顔されても「???」だ。

どうでもいいのでこの辺で終わりにするが、結構このタイミングから「まぁ大多数の人から外されても、少数で生きていけるかも」の感覚が生まれたように思う。

自動販売機のおつりを集めて夕飯代にした

中学のどこかのタイミングで生活保護を受けることになった。理由は知らない。
しかし、そのお金がなかなか自分のところに回ってこない。 

特に途中から夕ご飯がちょこちょこもらえなかったので、部活終わり自転車を漕いで、自動販売機のおつり部分や下に転がった小銭を集めて、酒屋でお菓子や海苔に変えて食べた。

意外とおつり部分にはお金がある。

集められなかった日は、近くの教会にお邪魔してご飯をいただいた。

▼中学3年生

なんとなくいじめも収まり、ご飯の集め方も身に付けたところでなんとびっくり、7月に転校することが決まった。

いやもうなんで???

実は中2のとき、練馬の中学に通いながら中野区に引っ越していた。それなのにまた引っ越しで、学校も変わるのだ。

わたしは未だに、これだけ引っ越してきた理由を知らない。

あと半年で卒業なのに、さようならだ。

いろいろあれど、3年過ごしてなんとなく居場所になりつつあった場所から引き離される。

居場所とは、なんだろうか、

新しい中学校、葛飾区

夏休みまであと2日とのことで、私は「すぐにでも行きたい!」学校の先生も「夏休みに遊べる友達ができるかもしれないので、ぜひ早く来て慣れてほしい!」と言っていたのに、母が謎に断固拒否して夏休み明けからの通学になった。

半年だけだったし、週6真っ黒日焼けでテニスをしていた私たちと違って、ジャニーズの誰がかっこいいとか、誰と誰が付き合っているだとか、これまたマセてる学校だったけど、みんなすごく仲良くしてくれた。

小島よしおが流行っていたから、吉川と「よし」が被るからという理由で「よしお」と呼ばれた😇『余塩』という漢字までつけてもらった。

私はこれが結構好きだった。

自分にあだ名をつけてくれて、それをみんな笑顔で呼んでくれた。みんな元気にしてるかなぁ。

ただ、この家に来てから母がおかしくなった。

中学の頃からひどい点はあったものの、潔癖症がひどくなり、学校から帰って玄関で部屋着に着替えずにあがると2Lペットボトルで殴られた。

足を除菌ウェットで拭いてスリッパを履いてからあがらないと、耳元で罵られた。

お風呂を10分で入らないと、夜ご飯をくれなかった。

でも自分は2時間入るし、その2時間の間、家にストーカーが入るといけないからと、内側からチェーンをかけて入ってしまう。

わたしが帰ってきても彼女のお風呂タイムだったら、極寒だろうが雨だろうが、外で待ち続けなければならなかった。

彼女が外出をするときは、これまたストーカーが入るといけないから、ドアノブと水道パイプを鎖でグルグル巻きにして、南京錠をして、でかけていった。(写真があったのに、どこかにいってしまった)

わたしは南京錠の鍵を持っていないから、もちろん外で待ちぼうけである。

追記:写真あった!!!
が、私が大学入学したのは2013年なので、ひょっとして、少なくとも、2014年まではこの感じだったのか…?高校で終わっていた記憶だったけど、よく考えたら私が大学に行き始めたからと言って終わるわけがないのであった。
(2015年からは引っ越してるので、この南京錠制度は廃止された。)

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布団には21時ぴったりに入らないといけなくて、1分でも遅くても早くても、2時間くらいねちっこく文句を言われる。(時々馬乗り)

これはほんの一部だけど、ここまで書くと「潔癖症だから」ではないとわかるだろう。

でも当時のわたしは「潔癖症の延長線だ」と信じていた。

高校受験

英語系に行きたかったので、ビジネスコミュニケーション科に進学した。

本当は別に行きたい高校があったけれど、私立に行くお金がなく、落ちたら高校浪人になる中で偏差値がほんの少し足りなくて、志望校を変えた。絶対に受かるところに、チャンスをせめて二回にするために推薦と一般で受験することを考えた。

だから、受かるのは、知っていた。

そして人生で初めて、卒業式に出る

みんな確かに仲良くはしてくれたけど、当日は心ここにあらずで、「あぁ、きっと今ごろ練馬でもみんな卒業式迎えてるんだろうな」と思いながら参加した。

もちろん、卒業アルバムは買わなかった。
(いつ誰に言われたかも忘れたけど、この話をした時に「え、卒業アルバムって買うものなんだ!もらえるのかと思ってた!」と言われた時には、カルチャーショックを受けた)

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▼高校1年生

入学する。ずっとやりたかった音楽をしたくて軽音楽部に入ったが、3ヶ月でやめた。
母のせいで友人と揉めたからだ。 

バンドのメンバーと「文化祭のオーディションを受けよう!」となり、エントリーへ向けて準備をしていたのだが、母がお得意の断固さで「絶対に出るな」と言ってきた。 

理由はもはや忘れてしまったのだが、何度言っても許可が出ず、そのせいでわたしのバンドはオーディションを受けられなかった。 

「許可なんて無視して受ければいいじゃん!学校のことなんだから親は関係ないじゃん!」と言われ、その通りなのだが、当時はその通りと思えず、気まずくなって、部活もやめた。 

授業も序盤で楽しくないことが分かったし、友人がする平和な話もあまり興味がなかった。 

一年生のときには都立高校の制度(一年生の6月に高校が合わないと思ったら、この時期に限り別の都立高校を受験できる)を使おうとしたが、担任に「まだ最初だから二年生から始まる選択授業まで待とう」と言われた。 

二年生まで待ってみたがつまらないことに変わりなかったので、普通に勉強するために通信高校に行くことを決めた。

しかしなんだかんだで止められ、「この不毛な交渉を続けるくらいなら、耐えて高卒だけもらっとくか」となった。

家はエスカレートする

高校に入ってからは、
髪の毛を持って文字通り引きずられる、
包丁をつきつけてくる、
馬乗りで首を絞めてくる、
産まなきゃよかった、ブスだねぇと嘲笑われる、
などが日常茶飯事。

毎日のお弁当は「あんたのためじゃないよ、あたしがちゃんとしてない親だと思われないようにだよ」と持たされた。

この時は結構自分もおかしくなってしまい、
壁に頭を打ち付けながらケラケラ笑ったり、
カッターで手首を切ったり、
川に飛び込もうとしたりした。

でもそれらをやりきることができなくて、
死を選ぶことすらできない自分を憎んだ。

人生で初めてのアルバイト

15歳の時にマクドナルドでアルバイトをした。

2ヶ月目には社員を含む全てのメンバーの中で一番レジ打ちが早くて正確とのことで、賞をいただいた。

とても嬉しかった。すごく大人の方よりも何かできたこと、がんばったこと、ほめられたこと、お金がもらえたこと。 

でも、生活保護家庭に育つ人は、収入があったらそのほとんどを国に渡さなければならない。

国のお金で生きてるので当たり前ではあるが、自分で生活保護を選んでいない15歳のわたしは、それがすごく悲しかった。

どんなに頑張っても、わたしの手元にはほとんどお金が残らないのである。

わたしは3ヶ月で、マクドナルドをやめた。

病院で存在否定をされる

ある日、風邪をひいたので病院にいった。生活保護だと医療費が免除になるので、その証明を渡した。

ソファで待っていると、受付の人たちが「あら、生活保護なんですって。よく病院来れるわね」と聞こえるように話していた。

座りながら悲しくなって、マスクの下でも、帰りの自転車でも泣いた。

自分は働いていないから治療を受ける資格がない、でも、稼ぐこともできない。

わたしは傍目には普通の子供だったが、学校にも、家にも、社会にも属せない人間だった。

▼高校2年生

高校はつまらないけれど、文化祭実行委員に入ったのは楽しかった。

文化祭自体ではなく、その前後で先輩たちとわいわい準備したことがすごく楽しかった。なんだかここには居場所がある気がした。

本番当日は照明係として、体育館のステージ照明を担当した。リハーサル含めてずっとそこにこもって、お菓子を食べたり、おしゃべりしたりした。

この時だけは自分が「普通」の高校生になれた気がした。

高3でクラス全員参加の芝居をやることになったときも、「わたしは照明をやります!!」と言い切って、クラス照明をしたし、そのほかの時間は受験勉強をした。

あの場所、もう一度行けるなら行きたいな。最高だった。

児童相談所、まわりの大人を全員不幸にすると決めた

17歳の時、担任と生活指導の先生に児童相談所に連れていかれた。

この頃には結構限界が来ていたので、担任に話したか友達に話したかで(絶望すぎて記憶が曖昧)、連れていかれることになった。

学校を抜け出して、お昼に3人で相談所にて面談した。

毎日存在否定されて悲しいこと、つらいこと、助けてほしいこと。包丁の話も首を締める話も、息ができなくなるくらいに泣きながらした。

でも、

「それはとてもつらいですね。
もう少し、様子を見てみましょうか。」

が、回答だった。

今でも覚えている。
あの時、時が止まった。
何も言えなかった。
あぁこの人たちはわたしの人生ではなく、仕事しか見ていないんだな、と思った。

帰り道に担任に「大丈夫?」と聞かれたけど、
「大丈夫」と答えた。

わたしはこの時決めていた。

「絶対に俺に関わる大人全員を不幸にする。あいつが突きつけてきた包丁で滅多刺しにしてでも、俺は俺で幸せになる」

「あの子はいい子だったのになんでこんなことを…」というパターンの「いい子」には、こういうからくりがあると思っている。

▼高校3年生

不幸にするために、「俺が死んでしまえば、それを救えなかった奴らとして、一生過ごさせることができるのでは?」と思った。

しかしふと、「俺はこいつらに嫌われてるのだから、死んだら思う壺じゃん」と思い直し、「こいつらより幸せな人生を送ることこそ、最大の復讐である」と考えて、やりたいことをやってみることにした。

それから高3の5月に受験をすると決め、学校を半分くらい休んで独学で受験をした。
学校のPC室で勝手に宅浪の方のブログを読み漁り、必要な参考書をAmazonの中古や神保町の古本屋で手に入れた。合わなかったら捨ててまた買う。
当時私は昼代兼おこづかいとして月に3,000円をもらっていたので、ブルボンの70円で買えるプチシリーズを昼ご飯にして、それ以外を参考書や模試につっこんだ。我ながらよくやりくりをしていたと思う。
その間ももちろん家の状況は変わらないし、1円も学費を出してもらう予定はないのに、「大学にいかせてください」の土下座をさせられた。

でも当時、他の社会の接点も、個人的なネット環境もなかったわたしは、大学に行かないと幸せになれない、本気で死ぬ、と思っていた。

それと、生活保護家庭の子供は大学進学できないと法律で決まっているので、親の世帯から抜ける世帯分離をした。これで、わたしへの保護費はゼロになり、学費と生活費を稼ぐ必要が生まれた。

それからなんやかんやあり、明治大学の経営学部と商学部だけ受験して、後者に行くことになった。
受験費用は一学部35,000円もするが、合計70,000円は母親から借金して受けた。ここが複雑なポイントで、彼女は自分では私のことを愛しているつもりなのである。愛しているからお金は出すし(生活保護のお金だけど)、言うことを聞かない対象として殴る。でも自分が一番大切なので、お金も結局は「これは貸すだけだから返してね」と言う。これについて責める余地はない。彼女も彼女でこうなってしまうだけの人生を送ってきたのだ。

高校も大学も第一志望に受験すらできずに終わっているので、しばらくは引きずってしまったものだ。

もちろん、卒業アルバムは買わなかった。

▼大学

これも色々あったけど、最も衝撃だったのは、「親と仲がよい」とか「学費を出してもらっている」とか「遊ぶために大学に来た」という人たちに出会ったことで、やっとの思いでたどり着いたこの場所でも、結局僕がアウェイだったことだ。

まぁこの4年は僕にとってのリハビリだったと認識している。
普通に勉強したり、わらったり、やりたいことをやってみたり、メンタルぐだぐだな中でも、社会で生きるための感情と思考をたくさん身につけられたように思う。

貧乏の最も怖いことはお金がないことではなく、自ら不幸のスパイラルに入っていく貧乏思考にあると思っているので、広い視野とフラットな感情と適切な思考の礎を築けたことこそ、最大の価値があったと思う。(結果論だけど)

▼すっ飛ばして大学4年生

ここに書けないことを全部飛ばして、大学卒業前に母を閉鎖病棟に入院させ、自己破産させた。

この頃には母は精神病を患って、幻聴や幻覚に大声で文句を言ったり、意味もなく叫んだり、壁を蹴りまくったり、ハサミで家電をぶっ刺したりしていた。(サムネの写真が、ハサミの被害に遭われた炊飯器)

ほぼ毎晩警察が家に来て、「親子喧嘩はやめてねぇ、近所迷惑だからね」とニタニタしながら言われ、こういう時だけ決まって隠れる母の代わりに、僕が怒られた。

そのうち、僕は警察に怒鳴るようになった。
「どうせ助けてくれないくせに毎日来るんじゃねぇよ!!」

「僕のせいじゃないのに僕のせいにされる。せっかく就職先は決まったけど、この先もいいことないかもな」と思った。
少しだけ見える希望は、絶望よりも残酷だ。

区や叔父に色々助けてはもらったけど、卒論と舞台出演とバイトと旅行と留学と内定者研修をしながら、彼女の洗濯物を遠い病院に届けたり、叫んだせいで追い出された家の代わりをさがしてあげたり、大家さんに謝ったり、自己破産のために法律事務所に通ったりした。

我ながらとんでもない二面性の中生きていたと思う。
この時これだけアクティブだったのは、がむしゃらになんでもしないと死ぬと思い込んでいたから。異常状態を跳ねのけるためにとんでもないエネルギーが生み出されていたのだろう。

社会人になってから半年間は、生活保護費の中でおさまる家を見つけても「汚いからやだ。ストレス。」と延々言われたり、病院についていかないと駄々をこねられたり、昼休みや研修の合間に破産手続きの電話対応をしたりしながら、なんとかわたしの生活から彼女を切り離すことに成功した。

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きっとこの先も面倒なこととか大変なことはあるけど、このベースがあるので、僕は基本すべてのことに期待をしていない。何か築き上げたものが崩れても築き上げたつもりだったかもな、と思うだけである。

ただここで問題なのは、『生き抜く』という大きな目標を大変な怒りと絶望のパワーを用いて達成してしまった(周りのやつらを不幸にしたかった件に関しては、相手を不幸にしたところで自分は幸せにならないし、そもそも「周りの大人たちは全員私を痛めつけたいと思っている」の考えが閉鎖的空間で生まれた歪んだ認知だったので、怒りを向ける必要がなくなり、関心の対象から外れた)ので、この先これほどまで熱量の高い目標と怒りに出会うことがなさそう=何かを全力で頑張ることができなさそうという点だ。

下手したら全ての出来事を、「どうせあと100年以内に死ぬから何やっても無駄」みたいな諦めで全てをなぁなぁに終わらせてしまいそうだ。

しかし今こうして生き抜いてみた先で見えた景色にはワクワクすることがたくさんあるのも事実だから、「ちゃんと楽しむ」をモットーに生きていくのも良いかと思った。

ここまでにわたしと出会い、普通の人間に近づけてくれた皆さんには心から感謝しています。

私のことを面白いと言ってくれて、一緒に悩んでくれて、真剣に話をしてくれて、バカみたいに泣いたり笑ったりしてくれて、本当に本当にありがとう。

これからは、少しでも世界を愛せますように。

--追記--
3年後、
28歳になった私は世界を楽しんでいるし、
今の生活が結構好きと思っているよ。
自分で自分の世界を選ぶことができた。
もう少しだけ楽しんでから、去ろうと思うよ。

生きる。 解釈が交わる世界で、手を取り合いましょう。