反復を抜け出した先にある終わり   ー『健康な街』レビューのような感想のようなー

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 11月19日。僕は西島大介個展『トゥルーエンドを探して』と今年度の新芸術校Bグループのグループ展『健康な街』を観に行った。西島さんの個展会場では、次回の批評再生塾、実作者回のゲストである蓮沼執太氏を含む面々でのトークイベントが催されたため、他の再生塾生も顔も見られた。さらにはひらめきマンガ教室生の今井曖昧氏も会場に来ていた。(ちなみに今井さんは23日に西島さんの個展会場で開かれるイベントでオープニングアクトをつとめた!) ここでは主に『健康な街』のレビューを書いていくのだが、にもかかわらずなぜグループ展を観に行った日の周辺的な情報をだらだらと書いているのかといえば、僕は『トゥルーエンドを探して』と『健康な街』という全く関係のないふたつの展示のタイトルに共通性を感じたからである。

 健康と回復は違う。回復とは広くいってしまえば具合の悪い状態から通常の状態へと変化することをいう。一方で健康は通常の状態を維持し続けることだ。そしてそれは日常の反復を繰り返しながら「正しい終わり=トゥルーエンド」へと向かっていく。そう、人を例にとれば健康とは「正しく死ぬ」ためにあるのだ。外部から栄養を供給し続けながら人は、皮膚や細胞などの古くなった組織を破壊し再生産しながら正しく終わりへと向かっていく。街も同じである。また、人とのスケール比の関係上、日々生産されていく「内部の死」がより可視化されている街は、西島さんの個展タイトルの元ネタにもなっている西島さん自身のマンガ『ディエンビエンフー』とも同じ構造を持っている。「とらしまもよう」『角川版』と主人公であるヒカルくんとプランセスの死を描きながらも『ディエンビエンフー』自体は反復され「トゥルーエンド」へと向かうために再生産されている。

 『健康な街』での6人のアーティストによる作品たちは、一見すると健康な状態であるかのように見せかけるために隠蔽された、裏側にひそむ不健康なものを表しているかのように見える作品がみられる。しかし、それらの作品も健康な日常の反復、その向こうにある終わりを先取りしているにすぎない。

 ①アトリエに入ってすぐ、壁面に作品を展示した長谷川さんは「誰が見て誰が聞くのか—服の死に方第三項」というタイトルで服をテーマにしている。かつての街は、そこを歩く人々がどのような服を着るかということを決定することすらできていた。さらに時代をさかのぼれば国や地域、人種によっても着るものが違っていたが、今では世界中で画一的なファストファッショブランドの洋服が安価で手に入るためにそのようなことはなくなった。長谷川さんはその、街との関係を絶った服が人と関係を結ぶことすらやめた先に見えるものを展示しているように見える。

 ②その長谷川さんの作品が展示されている壁面の足元には、五十嵐さん(下の名前はなんて読むのだろう)の作品「人を尊敬するための装置」が置かれている。一見するとレントゲン写真のように見える何か(これまた僕はこれをなんと呼べばいいのかわからない)はしかし、ところどころがにじんで境界が不鮮明になっている。レントゲン写真が医療の現場において有効に機能しうるのは、人体とそうでない部分を明確に区分した状態で現像することができるからであり、骨や臓器などが抽象化されずにはっきりとした輪郭が写されるからである。その点、長谷川さんの作品に描かれている人物(?)が健康かどうかは判断できない。そのような判断を留保させるようなパフォーマンスによって、僕たちを「日常の反復から出よ!」と指導しているのかもしれない。

 ③アトリエの狭いスペースを抜けたすぐ左手には有地さんの作品「スーパー・プライベート」が展示されている。有地さんが現在住んでいる埼玉県所沢市にある慰霊碑をモチーフにした作品で具体的な「街」をテーマにしている。環状の線路を走り続ける、自転車のイラストが貼り付けられた装置は人間が街の反復から抜け出すことの困難さを表しているのと同時に、街と人との「健康」のズレを感じさせるものになっていると感じた。街の反復に取り込まれることによって、僕たちは少しずつ疲弊していってしまう。しかし、街はまさにそのような人々から養分を吸いとるかのようにしながら反復を繰り返し、健康を維持していくのだ。その点で、街の反復の中心を示す象徴として、人々が祀られる墓地、そして慰霊碑を選んだことも効果的であったように思う。

 ④有地さんの作品のさらに奥には小林さん(批評再生塾、黒瀬さん回で登壇もされていた)の写真をテーマにした作品「テンポラリ_ファイル #ファイル2  ここがどこかは知っている」が展示されている。一見すると水の中に浸されている写真にまず目が行き、次に写真の束が土に半分埋められているものや金属のトレーに置かれたほとんど灰になった写真の残骸などに目がいく。僕ははじめ、これらが何を意味するのかがまったくわからなかったのだが、小林さんから話を聞いてみると、水槽に入れられた水は塩水でこれらの展示は写真の印刷紙を劣化させるためのインスタレーションであり、印刷紙の表面に写し出された「記憶」を剥ぎ取るための試みということらしい。写真とはその性質上、日常の反復から切り離され、定点を示し続ける。しかしその写真も実は少しずつ経年劣化しており、ひそかに時間性を有している。その写真に人の目にわかるような時間の流れを与え、人間の反復のリズムに同期させるという試みがこの作品の意図だと感じられた。そしてそのことによって今や写真家などの特定の人たちのみが扱うものになりつつある、印刷された写真というメディウムのいとおしさを思い出させる(年齢によっては発見させる)試みにもなっていると感じた。

 ⑤そして小林さんの作品に背を向けるとトイレの近くに下山さんの作品「健康意識」のメインになる、真っ白な小山が見える。この小山はグルタミン酸ナトリウムという食品添加物でできている。グルタミンはアミノ酸の一種で、味覚の一種である、「うま味」(日本人しか感じることができないという都市伝説がある)を感じさせる物質である。これは食品ではしいたけなどに含まれており、他にも出汁風味の調味料である「味の素」はこのグルタミンの役割が大きい。しかし、グルタミン酸ナトリウムは流通しているかなりの加工食品に含まれているとはいえ、含まれているのはごく少量であり、おそらく下山さんの作品で使われているそれは、僕たちが一生で摂取する量を優に超えているだろう。これまた都市伝説レベルになってしまうのだが、体に悪い食品添加物は体内に蓄積され続けるのだという議論がある。僕は当然この議論には乗ることはできないが、下山さんの作品はたとえばこのような言説をさらに先鋭化させ、よりグロテスクに表象することによって、反復しながらも蓄積していくものを可視化させる働きを持っているというように見ることもできる。その圧倒的な量によって、僕たちは反復の終わりを強烈に意識させられる。

 ⑥下山さんの作品の後ろ、アトリエの一番奥にあるのは中川さんの映像作品「ポルターガイスト」だ。天井からのびた2本の透明な糸でとめられた長方形のパネルが、ときおりゆらゆらと揺れながら16:9で映される薄暗い部屋の映像にときおり縦長の映像がはさまるという形で動画は進行していく。映像の内容は縦長のものでまず、人為的にさまざまな物に変化を加えている場面が映された後に、部屋にある同じものが変化する様子が映されるというものだ。しかしこれらの動画はそれぞれ同じものをふたつのカメラで撮ったというものではなく、技術的な制約によって別々に撮ったものになってしまったらしい。ただ、そのことによって中川さんが想定していなかったであろう問題を描けてしまったのではないだろうか。中川さんに話を聞いた際、彼は超常現象のタネ明かしをしたかったというようなことを言っていた。しかし、超常現象など存在しないという考えも、ひとつの現実であるにすぎない。ある種の妥協によって生み出してしまった中川さんの映像作品は、しかしそのことによって複数のリアルが存在し、そのどれに対しても正解であると確定することなどできない現在を映し出しているのではないだろうか。



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