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ガンダムからナウシカへ

1982年の「ガンダムⅢ めぐりあい宇宙」の公開の年は、私にとっても変化の年で、当時アニメージュで「風の谷のナウシカ」が連載スタートしました。
私は、この漫画にしびれてしまって、連載2回目くらいに、ガンダムの次はこちらへ行くとほぼ確信があって、徳間書店編集部へアニメ映画権をとりにいきました。
編集部の人はかなり乗り気で、いちど食事をしました。
私は何の権限もないのに、すっかりナウシカを松竹でやる気になって、映画製作本部の部長に相談したところ、企画会議へ企画書を出すように言われたので、連載が2、3回なのでストーリーの全貌はわからないのですが、雰囲気を伝える企画書を書いて提出しました。(当時の企画書は松竹大谷図書館にあると思います)通るといいなと思っていましたが、結局通らず、興行のトップに呼ばれて、ナウシカだか何だかよくわからん、宮崎駿の「ルパン三世カリオストロの城」(79年)はこけていると言われ、あげくに「君はガンダムで調子に乗ってるんだろ」と言われました。
このナウシカを実現できなかったことは、今でも悔しい気持ちが残っています。(※1977年~ ルパン三世TV第2シリーズ第155話が、宮崎さんのシナリオで、ここにラムダというプロペラで飛ぶロボットが登場します。これがのちにラピュタに登場するロボットによく似ています)
私はその後、「伝説巨神イデオン」(接触篇・発動篇)、「クラッシャージョウ」、「ザブングルグラフィティ」「ドキュメント太陽の牙ダグラム」「チョロQダグラム」、「超人ロック」、「魔法のプリンセスミンキーモモ 夢の中の輪舞」「魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ」「魔法の天使クリィミーマミVS魔法のプリンセスミンキーモモ 劇場の大決戦」、「ダーティペア」「バツ&テリー」、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を担当することになります。
映画のイデオンを作っている頃、私はまだ西武新宿線の井荻近くのアパートに住んでいました。上京してから同じアパートです。4畳半の家賃がたしか当時12000円くらいで、風呂なし、共同トイレでした。しかも水洗でなく、汲み取り式で、1Fと2Fにトイレがあって、2Fのトイレを使うと1Fへ落下する、私の田舎でもすでに水洗になっていたので、東京も遅れているなあ、と思っていました。(2Fのトイレははじめ和式でしたが、アメリカ人の留学生が入室した時に洋式に改装されて、洋式トイレからあれが落下する様は、よそで経験したことがない、ちょっと不思議な感覚でした)
松本零士先生の「男おいどん」という漫画がありますが、あのままの生活で、窓はサッシではなく木戸だったので隙間風が入ってきて、冬は室内も外と同じ気温で、朝には髪の毛がパリパリに凍っていました。夏には窓枠においどんのサルマタケならぬキノコのようなものが生えていました。
さて、井荻駅前の銭湯の帰りに、あれは1982年の5月くらいだったと思いますが、駅前のサンライズのスタジオでイデオンを作っていましたが、夜の11時過ぎにあかりがついているので、入っていくと、そこには富野監督がいて、ひとりで絵コンテを描いておられました。イデオンの接触篇、発動篇のたしかラストのみんなが魂になって宇宙へ飛んでいくシーンだったと思います。(ガンダムの時は興行部がタイトルに「篇」をつけるのに大反対でしたが、ガンダムが大当たりしたので、イデオンでは「篇」をつけても文句を言われませんでした)
富野監督とは、雑談してすぐに帰るつもりが、何か話し込んでしまい、富野監督が本当は実写の映画監督になりたかったが、就職するときに映画業界が斜陽になりかかっていて、おそらく1960年代まんなかころだと思います。映画会社が採用していなかったので、できたばかりの手塚治虫先生のアニメ制作会社・虫プロダクションに入ったとおっしゃっていました。富野監督は、「アニメなんかだいきらいだ」とおっしゃっていました。(本当かな)
こんな実写映画が作りたいともおっしゃっていました。
それは今ならCGで表現できる世界でした。当時はCGがなかったので、いわゆる特撮でやるとちゃちくなるなあ、と私は想像していました。富野監督もそう思っていたと思いますが、富野監督の構想はまだ見ぬCGの時代を予見していました。40年早かった。
この夜は、夜明けまで富野監督と話し込んでしまいました。おそらく富野監督も何か絵コンテがゆきづまって気分転換したかったのかもしれません。その気分転換に私がお付き合いした形です。(勝手にそう思っています)
夜明けになり、私は、そこをあとにしました。洗面器のタオルはだいぶ乾いていたと思います。
その日の午前中に会社へ行くと、私に電話がかかってきていると呼び止められました。サンライズのイデオンのプロデューサーからでした。私のせいでイデオンの絵コンテが遅れてしまったという苦情の電話でした。
ただ、イデオンはその後、7月に無事に劇場公開となるので、あのとき私が富野監督の気分転換にお付き合いしたのは無駄ではなかったと思っています。
7月の公開に向けて、富野監督と主要劇場を回りました。講談社主催の全国5大都市だったかの読者招待試写会があり、四国の高松へ行ったときは、富野監督が地元のラジオへ出演することになり、同行したのですが、事前の打合せの際に、年輩の番組ディレクターが、イデオンを漫画映画といったことに対して、富野監督が、「漫画映画ではありません。アニメです」とかなり強調されたのですが、ディレクターが「漫画は漫画だろう」と言うので、二人でアニメだ漫画だと言い合いになってしまい、同行した映画館の支配人と私も顔が蒼くなりました。なんとか本番では、富野監督は平静を装って、無事に出演を終わることができましたが。
イデオンでは、ペア券という2枚つづりの前売券を作りました。ガンダムでは、たしか哀・戦士の時かと思いますが、ファンの要望に応えて、4枚つづりの前売券・グループ鑑賞券を作りました。安彦さんのキャラクター券と大河原邦男さんのメカ券がありました。イデオンのペア券も、湖川友謙さんのキャラクター券と、中村光毅さんのメカ券がありました。4枚つづりもそうですが、ペア券という発想は当時の映画界では初めての試みではないかと思います。


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