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おでんと焼きそば。

 昭和三十六年。ぼくは六歳だった。
 当時、ぼくの家は、ガソリンスタンドとコンビニみたいな何でも屋をやっていた。ぼくは近所の人たちから「店の子」とか「スタンドの子」とか呼ばれていた。クリーニング店から戻ってきた父親のシャツの衿台の裏に「スタンド」とマジックでマークしてあったのをよく覚えている。
 当時のガソリンの給油機は手でぐるぐるハンドルを回して給油した。馬のような形をしていた。父親がゆっくりゆっくりハンドルを回す姿、ドラム缶を軽快に転がす姿を今も覚えている。父親は力持ちで筋肉隆々、腕の力こぶをぼくに見せてよく自慢していた。
 ガソリンスタンドと道をはさんで向かい側にコンビニみたいな何でも屋があった。その店は、ぼくの祖母が仕切っていた。祖母は、夏になるとかき氷を始めた。氷にかけるシロップは手作りだ。店の奥の炊事場ではまだガスコンロを使っていなかったので、かまどで薪を燃してシロップの素を鍋で煮立てた。色がないのが「せんじ」。イチゴやメロンには色粉で色をつけていた。せんじにあずきをのせてコンクミルクをかけると、ほっぺが落ちそうな甘さだった。シロップの素となる水飴は、近所の川沿いのでんぷん工場で作っていた。水飴の入った一斗缶が店の奥へつながる廊下にいくつも積んであった。この廊下は狭かったので、ぼくは「隠密剣士」の忍者のまねをして両手両足でささえて壁をよく昇り降りした。ぼくの祖父はお百姓をしていたが、でんぷん工場で今でいうバイトをしていたし、店の経営にもかかわっていたので、スーパーマンみたいによく働くじいさんだった。
 冬になると、祖母は、こんどは、大きな鉄板で焼きそばを始めた。おでんも始めた。おでんのことをぼくの田舎では当時「関東煮」と言っていた。ぼくの田舎にはこんにゃくに甘い味噌をつけて食べる「味噌でんがく」というものがあって、おでんというとそれを連想した。人気漫画の「おそ松くん」のチビ太が「おでん、おでん」と言っていたので、それで関東煮のことをぼくの田舎でも「おでん」と言い始めた。おでんのほうが都会な感じがした。ぼくは厚揚げをよく煮込んだおでんが大好きだった。
 祖母の焼きそばの作り方は、こうだ。さいしょに豚肉を♪じゅうう♫といためる。このときに油が周囲にはじけ飛んで、しかも♪じゅううしい♬な油の焦げた匂いも飛びちって、ここですでにおなかが思いきりすいてしまう。そしてキャベツの千切りをいためて、となりで焼き始めていたそばと混ぜる。豚肉とキャベツとそばがいっしょになって焼きそばが出来上がる。あとは青のりと紅しょうがをのせて頬張るだけ。豚肉とそばは、町の中心部にある肉屋で魚屋でもある「魚牧」から仕入れていた。魚牧ではアイスクリームも売っていたので、うちの店のアイスクリームは魚牧から入れていた。魚牧はその後、クリスマスのアイスクリームケーキも扱うようになる。いつだったか、クリスマスに母親が魚牧からチョコレートのアイスクリームケーキを買ってきたことがあって、これには本当に感動して、それから数年間、毎年うちのクリスマスケーキはチョコレートのアイスクリームケーキと決まった。
 昭和三十六年当時、うちの店では、夏にはアイスクリームを売っていたが、冬は売っていなかった。寒い冬にアイスを食べるのはおかしい、地元ではそんなことになっていた。農家が多かったので、家の構造上、冬は室内も寒かったんだと思う。
 店には、近所の丘の上にできた金属プレス工場の従業員が毎日のように買い物にやってきた。
 彼らは、集団就職でやってきた。九州の人が多かったと思う。店内で方言がとびかった。
お菓子を買ったり、ラムネを買ったり、まだ中学を出たばかりで寮生活を始めたお兄ちゃんたちだった。バナナは高いので手を出さなかった。
 くじらの赤いベーコンを頬張ったり、コロッケをかじったり、祖母の焼きそばを食べたり、かき氷をかきこんだり、そんなことしながら長時間、仲間たちとだべっていた。今のコンビニ前でしゃがんでいる若者みたいなものかな。祖母は、彼らに世話好きなおばちゃんの様に接していた。
 春がすぎ、夏がすぎ、秋が来て。
 やって来る若者たちは、仕事になれてたくましく成長していった。
 だが、彼らの中には、来るたびに、指を一本うしなっていたり、またしばらくするとさらに一本うしなっていたり、そういう若者が増えた。つとめている工場は金属プレス工場で、自動車関連の鉄板をプレスしていたらしい。よく手に包帯を巻いていた。ぼくの同級生の女の子のお父さんは、そこで片腕を失った。別の同級生のお父さんは工場の屋根を点検していて落ちて亡くなった。当時の工場の安全管理はすべて自己責任だったみたいだ。
 ぼくは指や手を失った彼らを見るたびにショックを受けていたが、彼らは店では、悲しそうなそぶりもなく明るくだべっていた。店ではカウボーイハットみたいな麦わら帽を売っていたので、彼らは思い思いにハットにマジックで絵や文字をデザインし、店の表で、ガンマンの決闘みたいなことをしてはしゃいでいた。
「おばさん、焼きそば」
「はいはい」
 祖母は店では若者の指のないことを嘆くでもなく、明るい表情で来る日も来る日も鉄板の上で豚肉を♪じゅうじゅう♬させていた。       了

 


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