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坐禅や念仏は、神道の「祓い」と同じか

こんにちは! いつも読んで頂きまして有難うございます。


今読んでいる本「成功している人は、どこの神社に行くのか?」には、こんなことが書いてありました。

「オランダのラドバウド大学のデクスターハウス博士らは、『よく考えると、好みが一定せずブレる』ことを明らかにしました。
もともとよく考える傾向のある人は好みがブレる傾向があり、すぐに判断する人は好みが安定していることも示しました

翻って自分自身を振り返ると、思い当たる節がかなりあります。 

パッパラパ~だった大学生までの自分が、本気で人生のことを考えたり、社会問題に興味持ったり、本を読みまくったりしだしてから、その時々の自分の興味によって、理屈で自分を正当化し、自分の「したいこと」を上書きしてきている自分がいることに気がつきました。

30代に入ってからどこか首尾一貫せず、自分が何で今こんなことをしているのかがわからなくなっているのが、ここ3,4年の自分なのです。

つまりブレまくっていたんですね。

またこの本にはこんなことも書いてありました。

アメリカのハーバード大学のランド博士らは、お金を渡された人が、どのくらいの金額を寄付するか観察しました。その結果、決断が早い人は寄付に回した金額が多く、よく考える人は自分の利益を優先する傾向がみられました。 


もうひとついきます。

脳科学者で東京大学の池谷祐二教授は、
「直感的に判断すると好みが一定し、しかも他人に利する行動をとる。一方、一歩踏みとどまって考えると、自分の内なる声に正直でなくなり、しかも利己的になる」と解説しています。


今の時代は、過剰なほど「論理思考」が求められます。つまりめちゃめちゃ考えることが求められているんですね。 日本人はそれで皆賢くなった。

賢くなったというのは、利口になったということです。つまり、無茶をする人がいなくなった、後先考えずに行動するような人が少なくなった。それによって、日本人からダイナミズムが失われていっている気がします。

まあ、もちろん、よく考えることを否定するわけではありません。 モノを考えることが人間の人間たる所以だからです。

ただ、そうやって身に付いた「思考の癖」というのは、人間の能力のコア(核)の部分の外部付着物のようなもので、それによって純真さなどが曇ってしまっているのが私たちなのだと思います。

人間にはもっと、動物的な直観力が備わっています。

私は、禅に関する本をたくさん読んできましたが、坐禅修行を続けるとそのような直観力が身に付く人もいるそうです。

結跏趺坐を組んで座禅をすることによって、血液が脳のある核の部分に集中し、そこが発達し、直観力が開発されるというのを読んだことがあります。(良ければこれをお読みください。「禅と悟り」)


また、私の好きな関大徹和尚の「食えなんだら食うな」という本には


自分の死期が迫っているのを悟り「俺は明日死ぬ」と弟子に告げて、本当にぽっくり逝った禅僧の話や、90歳を超える老禅僧が座禅中にそのままの姿で逝ってしまっているのを、別の部屋の禅僧が「直観」してわかった話などが載っており、とても興味深かったです。

ただ、禅の修行によってそんな直観を身に付けるのはきっと大変なことです。

また「成功している人は、どこの神社に行くのか?」にはこんなことが書いてありました。

「考えることをできるだけ停止し、直観・感覚に素直になるための場所が、神社なのです」

神道では「祓い」ということをよく言います。

生活で身についた「穢れ(氣枯れ)」を落とすのが「祓い」ですが、今までに付着した穢れを祓うことで、余計な思考すらも「祓い」、直感力を取り戻すところが神社ともいえるかもしれません。

ちなみに、手水舎で手を洗ったり、参道の真ん中ではなくちゃんと端を通ったり、玉砂利を歩いたり、鈴を鳴らしたりする、神様を参拝するまでの一連の作法に「祓い」の効果があるそうです。


神様と向き合うまで心身を清める行為を行うことで、自分の中の傲慢さを祓ってくれるのに効果がありそうです。そして、神と真摯に向き合うことができます。

もちろん神社の清浄な空気感にも「祓い」の効果があるでしょう。

近年、相当に理屈臭くなってしまっている私は、自分の長年付着した「穢れ」を祓うべく、最近は毎朝歩いて5分くらいの神社を参拝しております。

ちなみに、キングコングの西野さんも毎朝神社に参拝し、自分の書く本のプレゼンを神様の前でするそうです(笑)

私はプレゼンまではしてませんが(笑)、とりあえず祓いに祓えば、今後の自分のすることも見つかるかなとゆったりと構えております。

そもそも、余裕のないことが「穢れ(氣枯れ)」といえますからね。

毎朝30分の座禅も、フィンランド人の友人と相変わらず続けていますが、神社参拝は、神様と向き合うまでの畏れの気持ちとその澄んだ空気が、自分の気持ちをもっとシャンとさせてくれているように思います。


ちなみに、セックスも酒もしまくっていた禅僧であった一休さんも、最後は念仏に辿り着いたといいますから、念仏を唱えるのも、祓いや座禅と似たような効果があるかもしれません。

今日はここまでです。読んで下さいましてありがとうございました!

また近々更新いたします。




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