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嫉妬する人、される人、それを見ている人

だいぶ前、知人がTwitterで理不尽なクソリプをされていた。批判や反論ではなく、ただただ「悪口」でしかないやつ。

そのクソリプは嫉妬によるものだった。SNSでよく見る「悪口の動機はすべて嫉妬説」には反対だが、その件は、前後の文脈から見てもあきらかに嫉妬だ。

理不尽な悪口を言われるのは悲しい。知人がかわいそうだ。

しかし、「クソリプされた知人」と「クソリプした人」、もしも私がどっちかと入れ替わるとしたら……と考えてみて、前者がいいなと思った。

「人を傷つけるより自分が傷ついたほうがいい」的なことではない。

クソリプした人のページにとんでツイートを読んでみたら、なんだか毎日がつまらなそうだったのだ。ひがみと恨み節に満ちていて、何ひとつ羨ましい要素がない。

客観的に見て、クソリプされた人のほうが圧倒的にすてきで、楽しそうで、幸せそうだ。

インターネットでもリアルでも、「嫉妬されてる人」より「嫉妬してる人」のほうが羨ましかったことってない。


嫉妬について語るとき、多くの人は、「嫉妬する人」と「嫉妬される人」にのみ言及する。

しかし現実には、「そのふたりを客観的に見ている第三者」が無数に存在する。むしろ、私は第三者の立場に置かれることがもっとも多い。

善悪や正誤ではなく、メリット・デメリットで考えたとき、第三者から「嫉妬で他者を攻撃する人」と思われるのはデメリットしかない。そう思われて得することって、何ひとつないのでは。

誰かに嫉妬心を抱いたとき、過去に第三者の立場で感じたことを記憶から引っ張り出す。

「ああはなりたくないよなぁ」という反面教師たちを記憶のストックからわらわら出すと、みっともないことはできなくなる。同じことをすれば、私の姿は他者の目に、同じように映るから。

「じゃあ第三者から見えないように攻撃すればいいのでは?」と思うかもしれないが、誰の目にふれなくても、事実は残る。たとえ捨てアカウントでも、そんなクソリプしたことを1時間後に忘れていようとも、「そんなことをする人間である」という醜悪な事実はこびりつく。洗っても落ちないにおいのように。

そのにおいは、文章の行間から、ふとした仕草や言動から、立ちのぼるだろう。

かと言って、嫉妬をするなという話ではない。

嫉妬は誰の心にも生じるものだ。感情がオートマティックに浮かんでくることを、自分の意思で制御するのは難しい。

ただ、ここで人間の「ある機能」を使うことはできる。人間は基本的に、態度や言動を自分の意思でコントロールできる仕様になっている。心に浮かんだ嫉妬を、攻撃に転化させないことは可能だ。

嫉妬すること自体は仕方ないとして、湧き上がったその感情をどう昇華させるか?

そこに、その人の「自己コントロールできる度合い」があらわれる。そして、それはときとして第三者の目にも可視化される。

「相手の立場になって考える」も大切だが、それで自分を制御できないときは、「第三者の目を意識する」のもひとつの手だと思う。



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